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『ドルアーガの塔』研究室 管理日報

『ドルアーガの塔』研究室管理人・GILによる、更新履歴だったりつぶやきだったりてきとーに。

函館ゲーセン・メモリーズ【12】棒二森屋の魔法の扉

前回、函館駅前のデパートについて書いたが、ここでひとつ忘れてはならない……いや、忘れることなどできないメディアについて触れる必要がある。

ラジオ番組ラジオはアメリカン(通称・ラジアメ)だ。
当時のゲームマニアには言わずと知れた、ナムコ一社提供の番組である。


そもそも、1980年代当時はゲームに関する情報収集に、多くの苦労が伴う時代だった。
もちろんインターネットはおろかパソコン通信も普及しておらず、公式の情報源であるゲーム雑誌は月に一度の刊行。
おもちゃ売り場の店頭には、家庭用ゲームソフトの発売予定表が掲示されており、そうした店頭などで一部メーカーが配布する無料のチラシや小冊子などが、数少ない「公式」の情報だった。それ以外では、テレビCMも貴重な情報源であったが、それを流せるメーカーも流す番組も、ごく限られていた。
一時期、メーカー側が「ファンクラブ」を組織して会員に会報とチラシを送ったり、テレフォンサービスなどで情報を公開することも流行っていた。
それ以外は、「口コミ」という非常に不確かながら伝播するメディアが頼りだった。これは都心も地方も変わりない。

その口コミで級友から伝えられたのが、ラジアメの存在だった。
毎週放送される30分のラジオ番組で、番組の合間にはナムコゲームのラジオCMが流れるという。
まさかそんなものがあったとは! 北海道では日曜日の深夜という、学生にはキビしい時間帯であったが、それでも聞いてみることにした。


初めて聞いたのは、1985年12月。
ちょうどパーソナリティが初代・大橋照子から、2代目・斉藤洋美にバトンタッチした年の暮れだった。

その時に流れていたCMは、アーケードの『スカイキッド』とファミコン『スターラスター』。おお、本当にナムコゲームのCMがラジオから流れている!
さらにコーナーの合間には、ゲーム中に流れるジングル(『パックランド』のフェアリーランド到達時の曲、『リブルラブル』のゲームオーバー音、NEWの付かない『ラリーX』のネームエントリー曲等)が流され、彩りを添えていた。
当時からゲームセンターで、ゲームミュージックを生録していた人間が、これを録音しないわけがない。さっそく翌週から、毎週日曜日にラジアメをカセットテープに録音する新習慣が始まったのだ。


当初はナムコのラジオCM目当てで聞いていたラジアメも、いつしか番組そのものの魅力に取り憑かれていた。

斉藤洋美と大橋照子は、そもそもラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の看板番組ヤロウどもメロウどもOh!(通称・ヤロメロ)で人気絶頂を誇っていた、“たんぱ三人娘”のふたり(もうひとりは小森まなみ)。溌剌とした明るく楽しいトーク術は折り紙つきで、構成作家の鶴間政行の絶妙なツッコミも相まって、中高生が聞いて楽しくないわけがない内容だった。

番組の最後に読み上げられる「番組ご協力者さん」に加わりたくて、わけのわからない貢ぎ物をしてみたり(ちゃんと名前が読み上げられ、次の日学校で級友から冷やかされた)、投稿をはじめたのもこの番組がきっかけであった。


そして、1987年9月23日。
とあるきっかけがきっかけを呼び、ラジアメが函館に来ることになった。


当時、ラジアメは「全国ふれ愛キャンペーン」というイベントを行っており、函館でもそのイベントをやることになった。その会場が、他ならぬ棒二森屋の屋上だったのだ。
ボーニの屋上に足を踏み入れたのは、未だにこの時しかない。

いつもは閉ざされた扉が、この日に限り開放されており、普段なら足を踏み入れてはいけない階段を踏みしめて、屋上へ。

棒二森屋の屋上

太陽と青空、やや強めの風の向こうに、電波越しに声しか聞いたことのない二人はいた。
ステージ左側には、このイベントで使用した『ワギャン』の姿も。
※先日、実家でネガフィルムを発見し、それをスキャンしてみた。以下、とくに断りが無い限り当時の管理人のカメラで撮影した写真となる。

洋美さんのアップ

上記写真の、洋美さん部分を拡大。

普段意識したことのない、同じ函館の地で同じ時間に、同じ周波数に合わせてラジオを聴く“仲間”たちに囲まれ、夢のような時間は瞬く間に過ぎていった。

洋美さんと当時のリスナー達

最後に下敷き(通称:魔除け下敷き)にサインをもらい、一緒に写真を撮っていただいた。
この写真、どうやって公開しようか迷ったが、当時の空気感を少しでも伝えたかったので、洋美さんを除く周囲の人々の顔だけ隠し、あとはそのままにしてみた。
手前にある、南瓜などの野菜は……もしかしたらリスナーが実家で育てたものを持ってきたのだろうか? もうこのへんの記憶はとんとない。

鶴間さんとツーショット

特に鶴間さんが「『明星』のポーズで」と、肩を組んで写真に収まってくださったのは嬉しかった。


しばらくして、その時に写真を撮影していたカメラマンの方が、写真を函館キャロットハウスの壁に並べられ、希望者に向けて販売していた。
照れながらも自分の写った写真や、洋美さんらの写真を購入。

張り出された写真1

張り出された写真2

この二枚が、その時購入した写真(写真を直接スキャンしたので少々汚い)。

あの日のキャロットハウスは、まるで遠足で撮った写真を掲示していた、学校の教室みたいだった。



しかし、成長するにつれ、やがてラジアメは聞かなくなってしまった。
「つまらなくなった」「俺には合わなくなった」というボンヤリした、いわゆる中二病のような感情があったことを何となく覚えている。
それと、番組内で「ぼくが作った曲です!」のような触れ込みで、投稿された同業他社のゲーム音楽が流されたことがあり、それで妙なヘイトが蓄積された覚えもある。
また、良くも悪くも大きな変化のない内容は、そのまま自分自身の嗜好を映し出す鏡となって、己の成長を無意識のうちに見せてくれたのかもしれない。
そして、それまでカリスマであり続けてきたナムコのゲームが、自分にとって必ずしもそうではなくなってきたことが、一番大きな理由だったと今は思う。

1988年頃に、それまでほぼ途切れずに続けてきた録音をやめ、以後はたまにダイヤルを合わせることがあった程度。
それも、パーソナリティが3代目に交代し、番組のカラーが大きく変更されたところで、もう聞くことはなくなった。


管理人にとって、ラジアメは子供から大人へ精神的に成長する最中に、ぴったりと填まったパズルのピースのようなものであった。
ゲーム、ナムコ、深夜ラジオ、会ったこともない電波の向こうの“ヒロイン”と、同じ時間を共有する“仲間”。そんなピースが填まったからこそ、棒二森屋の屋上という「約束の地」へと通じる魔法の扉は、開いたのであった。

もう、こんな形で魔法の扉が開くことは、二度とないのかもしれない。


【余談】
前掲の写真で、ふととある少年(今は立派なアラサー? アラフォー?)のウエストポーチに目が留まった。

ナムコット・サマーカップ'85

これ、ナムコット・サマーカップ'85という当時行われたイベント(ナムコのファミコンゲームのハイスコアコンテスト)で、応募者全員から抽選で選ばれた人に贈られるプレゼントなのだ。
あのイベントから27年、今になってようやくこんな事実に気付いた。写真とは恐ろしい……!



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  1. 2014/03/09(日) 18:00:00|
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函館ゲーセン・メモリーズ【11】駅前三大デパートのゲームコーナー

最初に断っておくことがひとつ。
じつは管理人は、函館駅前のゲームセンター事情にはあまり詳しくない。
実家からは相当離れた場所であるため、そもそも駅前に来ることすら稀であった。
よって、当時の記憶もかなり乏しく、函館駅前のゲームセンターに関する記述は、かなりあやふやである点をあらかじめご容赦いただきたい。
(そして、できればより記憶の確かな皆様方に、同じようにブログ等で語っていただきたい。)



以前にも記したとおり、JR函館駅付近は函館の繁華街のひとつである。

函館駅の真正面に延びる道路を、路面電車の函館市電が縦断しており、その左右のアーケード街には、大小さまざまな店舗が軒を連ねている。
その中心といえば、なんといってもデパート群。老舗の棒二森屋(ボーニ)と、その正面に建つ和光デパート、少し離れてさいか(彩華)デパートの三店舗が、ほんの半径数百メートルの円内に結集していた。

これらのデパートに共通していること。
それは、上層階にゲームコーナーが存在していたことだ。
函館駅前のデパートのゲームコーナーは、それぞれに特徴的とも言える独自のラインナップを形成していた。


棒二森屋


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ボーニの上層階といえば、なんといっても「おもちゃ売り場」に「大食堂」。
子どもの頃に買い物に連れて行かれた折は、たいてい親が買い物をしている間、おもちゃ売り場に放牧され、時間を潰していた。そして、買い物を終えた親と、たまに大食堂で食事をとる。
窓から眼下に広がる、函館駅前の光景。それは子供心に、天から下界を見下ろすが如き悦楽をもたらしてくれた。

ゲームコーナーが存在していたのは、おそらく7階だったと思う。
だが、ここに来たことはかなり少なかったため、ラインナップに関する記憶はほとんど無い。
たしか『マッピー』『メトロクロス』を初めて見たのが、ここだった気がする。そういえば、筐体やコンパネはナムコ製だったかもしれない。
また、当初はわりと普通のゲームコーナーだったが、ある時期はバックヤードのようなやたら狭いスペースに追いやられていた記憶もある(1985~86年頃?)。

やがて1982年、隣に別館「ボーニアネックス」が建てられる。


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そこの7階にゲームコーナーが移ったのは、いつのことだったか。
前回の冒頭で少しだけ触れたが、学校を卒業後、一時的に函館で働いていたことがあり、その職場が函館駅の付近にあった。
この時はもう比較的新しめのラインナップ、当時のごく普通のビデオゲーム群が設置してあった。ジャレコ製筐体に『V・Ⅴ』『BATSUGUN』『ストリートファイターII'ターボ』なんかが稼働していた。

ボーニアネックスのゲームコーナーは、現在も1フロアをまるまる占有して営業している。
そのほとんどは、プライズマシンやプリントシール機、メダルゲームなどで、ゲームも『太鼓の達人』シリーズくらい。
楽しい場所ではあるが、かつてのような刺激は、そこにはない。

なお、ボーニにはまたちょっと異質の思い出もあるのだが、それは次回書かせていただく。


和光デパート


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ボーニの真正面にある和光デパートは、ボーニとの競合を避けるという意図があったのかもしれないが、昔から風変わりな大型店舗であった。

やや高年齢層向けのファッションが多く、地下には味に定評のある美味しいラーメン屋や、レコード店もあった。
余談だが、ここのレコード店で『ベスト・オブ・ビデオ・ゲーム・ミュージック』の新品CDを見たことがあるが、今のところ現品を見たのはこの店で一度きりだ(当時はCDプレイヤーを持っておらず、また当時の財政状況ではとても手が出なかった)。
また、医療系のテナントが多く入っていたり、ブロマイドなどのアイドルグッズショップなんかもあった記憶が残る。

そして、ここの7階にあるゲームコーナーは、新旧入り乱れてさまざまなゲームが並んでいた。
板張りの床に並んだテーブル筐体では、『パックマンJr.』や脱衣麻雀などが稼働しており、ひときわカオスな雰囲気を漂わせていた。
奥には100円で10分程度ファミコンが遊べる筐体(中にRPGが入っているのは凶悪であったが……)、一方で屋上側の窓ぎわには『ニンジャウォーリアーズ』が置かれてもいた。
メダルゲームは比較的年代物が多く、『ニューペニーフォールズ』などもあった。
窓からは屋上の景色が見えており、他店舗と比べても日光の差しこむ解放感はあった。

このように差別化を図っていた和光デパートも、やがて斜陽の道をたどることとなった。
いつの間にかテナントが次々と撤退を始め、美味しかったラーメン屋も潰れたのか移転したのか、その行く末は知らない。地下をはじめとするいくつかのフロアが閉鎖され、7階のゲームコーナーも撤退してしまった。

この後、7階には「アニメイト」が入居し、板張りの床の上には所狭しと同人誌やアニメグッズが並ぶこととなる。
他にも、鉄道関連の展示フロアやトレカショップなど、マニア向けのテナントが入り、往時とはまた違った盛り上がりを見せていた。

しかし、長い歴史を持つビルも、残念ながら2013年秋をもって閉館、2014年の取り壊しが決まった。
やがて新たなビルが建てられ、駅前の新しい目玉施設となるのだろう。そして、やがては和光デパートの在りし日の姿も、忘れ去られていくのだろう。


さいかデパート

上記の二店舗と比べると、やや地味な印象のあった「さいか」。
ここは2階にYESこと「そうご電器」(北海道で80年代に有名だった家電チェーン店)が入っており、そこにはソフトベンダーTAKERUというパソコンソフトの自動販売機が設置されていた。
中学生の頃からMSXユーザーでもあったので、ここをたびたび利用していた記憶がある。

普段は2階にしか行かないため、じつは上層階にゲームコーナーがあることをしばらく知らなかった。
きっかけは忘れてしまったが、ある時その存在に気づき、行ってみた。
すると、そこには時代に取り残されたかの如く、当時でも貴重なレトロゲームであふれかえっていた。

印象的だったのは、『ジグザグ』『パックギャル』といった微妙に本筋から外れたゲームと、その並びで稼働していた『イスパイアル』。店舗で稼働している『イスパイアル』を見たのは、今のところこれが唯一だ。
また、『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』『ラフレーサー』『ミッドナイトレジスタンス』などが稼働しており、それらは以前にも触れた「ゲームミュージックの生録」にも活用していた。
ほかに、セガ・マークIIIのゲームが何種類か入ったアップライト筐体もあり、『北斗の拳』の海外版『ブラックベルト』で遊んだこともある。
また、かつてはナムコのエレメカ『F1』が稼働していたのか、その壁部分のみがフロアの隅に立てかけられていた。

だが、ここも時流には逆らえず。
末期になると、ワンフロアをまるまる使用していたゲームコーナーは、4階の寝具売り場の片隅に大幅に縮小させられることとなった。
とはいえ、ここで稼働していたセガの『F-1エキゾーストノート』は、寝具売り場という滅多に人の来ない静かな空間で、時折アトラクトにてキレのいいギターサウンドを聴かせてくれていた。
この場所で稼働しなければ、管理人もこのゲームのサウンドの良さに気付くことはなかっただろう。今もってCD化されていないことは非常に残念だ。

そうした思い出を残しつつも、結局さいかは1990年代末に休業、ビルも2002年頃に解体されてしまった。


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跡地は現在、新しいビルが建ち、パチンコ屋が営業している。


デパートのゲームコーナーは、子供にとっては未知のカルチャーに触れる端緒でもあった。
ゲームセンターは暗すぎるし、スーパーのゲームコーナーは狭すぎる。デパートの広々とした空間に敷き詰められた、新旧取り混ぜた野放図なビデオゲームこそが、時に思いも寄らない出会いをもたらしてくれる。
その誘惑に引き込まれたからこそ、今もってゲームを深く愛する方々も多いことだろう。

デパートに買い物に来る家族連れ、親の買い物中に子供が遊びながら待つという性質から、今はそこにマニア性など求められないのだろう。
子供が安心して遊べる場所ではあるが、子供が刺激を受ける場所ではなくなってしまった。


今の子供たちは、どうやってアーケードゲームに触れればいいのだろう?



  1. 2014/03/07(金) 23:00:00|
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函館ゲーセン・メモリーズ【10】ジャンプと五稜郭ゲーセンの終焉

五稜郭のゲーセンを拠点に過ごしてきた三年間は、あっという間に過ぎていった。
その後、進学でしばらく函館を離れることとなる。
進学時のゲーセンにも、また思い入れはあるのだが、それは別の機会にでも触れたい。


さて、その後諸事情により、一時的に函館に帰ってしばらく働いていた。

函館を離れていたのはわずか数年であったが、その間にも五稜郭のゲーセンの様相は、大きく変わっていた。


元々、ハイテクセガ五稜郭桃太郎のある場所は、その奥にボウリング場のジャンプがあった。
ハイテクセガの横から伸び、桃太郎への入口もある白い階段は、本来それよりさらに上の階であるジャンプに通じていたのだ。
ジャンプはボウリング場ということもあり、基本的にゲームはそれほど充実はしておらず、熱心には通わなかった。
だが、一時期は函館キャロットハウスにもなかった『メタルホーク』が入っており、友人Kとともによく遊んでいた。

そのジャンプが、ビルの下の階にあったスーパー(たしか生協だったと思う)の部分に進出し、さらに手前の駐車場部分に入口施設を増築して、ゲームコーナー部分を独立させたのだ。
それまでとは比べものにならないほど広々としたスペースに、大型筐体ゲームがたくさん置かれていた記憶がある。
時期的には、その頃人気を博していた『ダンスダンスレボリューション』や、『ファイナルハロン』、そしてなぜか『トップランディング』があったのを覚えている。……が、時間と場所がどこか混在してしまっているかもしれない。


1976年のジャンプ

これは国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)から転載した、1976年のジャンプの様子。
右上は五稜郭公園、五稜郭タワーも昔のものが建っている。右下は後に函館美術館が建てられる場所。
赤いワクで囲んだ建物がジャンプだ。


1993年のジャンプ

こちらは海上保安庁による1993年の航空写真。
1976年当時のジャンプにはなかった建物が、ふたつ隣接しているのがわかるだろうか?
向かって右上の小さな建物が、まさしくハイテクランドセガ五稜郭店や桃太郎が入っていたビル。
右下のやや大きな建物が、前述のジャンプの増設された入口だ。


だが、実際には五稜郭のゲームセンターは、着々と終焉に向かっていた。

真っ先に姿を消していたのは、ソアラだったと思う。
店構え(というより入居していた雑居ビル)はそのままに、居酒屋になっていた。
これはショックだった。自分が足繁く通っていたゲーセンの閉店に遭遇するのは、初めてのことだった。
つい先日まで気軽に立ち入ることの出来た場所が、突然無くなってしまった喪失感。
もはや扉を開けることも、裏口から出入りすることも、『ストリートファイター』で遊ぶこともかなわなくなった……。

そして、ハイテクランドセガ五稜郭店は、いつの間にかコンビニエンスストアのローソンになっていた。少なくとも、前述のジャンプの入口増設時には、すでにゲームセンターではなかったと思う。
こちらはコンビニだったので、何食わぬ顔で中に入ることはできた。しかし、それはそれでやはり店内のそこかしこに満ちあふれる、かつての思い出に浸ってしまう。
入口の数段の段差はそのままだし、店員のおじさんたちが立っていたカウンターはそのままレジになっていた。そういえば、あの店員のおじさんたちは、今どうしているのだろうか……?
奥の方は冷蔵庫が陳列され、往時よりも狭く感じられた。ここにはこんなゲームがあって……あそこにはあの大型筐体があって……トイレの位置は変わっていない……。
なまじ店内をくまなく見られるぶん、より寂しさが募ってしまう。

2階にあった桃太郎も、閉店はしていたはずだ。
ただ、ここは別のテナントが入ったわけではなかったのか、それとも閉店しておいて、そのままになっていたのか。
白い階段を昇ることもなくなったため、その後どうなったかの記憶は、さっぱりない。



そして、現在。


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あのビルがまるごと取り壊され、跡地にはマンションが建てられた。
1999年の航空写真では、まだ建物は健在だったが、Google Earthで見たところ2002年にはすでに取り壊しも完了し、マンションの建設が始まっていた。

もはやジャンプもハイテクセガ五稜郭跡地も桃太郎跡地も、みんな消え失せた。
感慨に浸ることすら許されぬぐらい、完膚なきまでに思い出の地は塗りつぶされた。

こうして、五稜郭のゲームセンターは終焉を迎えたのだ。


だが、五稜郭のアーケードゲーム文化が滅んだわけではない。
その近隣にある、大型店舗内のゲームコーナーは、まだ生き残っていた。そして、そのゲームコーナーは、後に五稜郭におけるアーケードゲームの中心店となっていく。
そのゲームコーナーについては、また後日触れることとしよう。


  1. 2013/06/01(土) 12:00:00|
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函館ゲーセン・メモリーズ【9】函館キャロットハウス(2)

今でこそ、学生も社会人も「週休二日制」が当たり前となってきている。
自分が子どもの頃は、週休二日制ではなく、土曜日にも当たり前のように授業があった。ただし午前中で授業が終わる、いわゆる「半ドン」であった。

最近のアンケートで、昔の子供たちが土曜日も学校があったことに対し、今の子供たちは「かわいそう」と思っているらしい、との結果が出ていた。
だがしかし、それは違う。
午前中で授業を終え、昼休みすらなく学校が終わった時の解放感には、格別のものがあった。
お昼ごはんまで含めて、午後は何をやってもいいという自由。これは丸一日休みのときには味わえない、胸が高鳴るような楽しさがあった。
函館でも冬を除けば自転車通学だったので、友人と連れだって自転車にまたがり、広い青空の下、公園を縦断する気持ちよさは今でも覚えている。


この頃、土曜日の放課後になると、だいたい美原地区に足を運んでいた。
以前も触れたがイトーヨーカドー長崎屋、そして函館キャロットハウスがあるこの一帯は、ゲーム好きの欲求を満たすのに十分すぎるほど充実した環境だった。
イトーヨーカドー地下のフードコート「ポッポ」で昼食を食べ、長崎屋の中古ゲームソフト店「チェリースタンプ」でゲームを物色し、その隣の「ミュージックショップ国原」でCDを探すのが定番コース。余裕があれば、函館名物のパーラーフタバヤのソフトクリームも食べた。
そして、準備を終えたらキャロットへ向かい、そこで心ゆくまでゲームを遊ぶのだ。

当時のキャロットは、まだテーブル筐体がフロアのほとんどを占めていた。
ただ、以前と違って壁ぎわにはモニタが垂直に立てられた、2in1筐体が並べられていた。ここには『ローリングサンダー』『スカイキッド』『源平討魔伝』『ワンダーモモ』などの、やや古いナムコゲームが中心に稼働していた。
テーブル筐体では、『メルヘンメイズ』『爆突機銃艇』『オーダイン』『プロテニス・ワールドコート』『フェイスオフ』『未来忍者』『フェリオス』『ロンパーズ』『ブラストオフ』『ワルキューレの伝説』『ファイネストアワー』『バーニングフォース』『デンジャラスシード』『マーベルランド』『球界道中記』『ピストル大名の冒険』『倉庫番DX』『ドラゴンセイバー』……当時を彩るナムコゲームは、本当に挙げていけばキリがない。
他社ゲームでは、『グラディウスII』(筐体を改造してテーブル筐体の上にステレオスピーカーが置かれていた)『コンバットスクール』『A-JAX』『シティーボンバー』『R-TYPE』『ルナーク』『大魔界村』『天地を喰らう』『ストライダー飛竜』『ドカベン(カプコンの野球カードゲーム)』等々。そういえば、なぜかTADの『カベール』が人気で、わりと長期間稼働していたことを覚えている。その続編の『ブラッドブラザーズ』も置かれていた。
大型筐体は『ウイニングラン』『ダートフォックス』『ウィニングラン鈴鹿GP』『フォートラックス』『ファイナルラップ2』などがあったはず。一瞬だけ『スーパースプリント』が入っていたことも覚えている。以前からあった『ポールポジション』は、気がつけば『3DサンダーセプターII』に生まれ変わっていた。

ここではひとつ笑い話がある。
壁ぎわの2in1筐体に、『リブルラブル』が入れられていたのだが、これがどうやら予想以上のインカムを得たらしい。
たしかに、自分含めけっこうな人が『リブルラブル』をプレイしていた。自分はちょうど当時、苦心して伝説の本「ALL ABOUT NAMCO」を入手し、そこに書かれていた攻略法を試すことができたのだ。
やがて、ここまでインカムがあるなら、となったのだろう。『リブルラブル』は入口のすぐ近くのテーブル筐体に“昇格”したのだ。
ところが、この時ツインレバーに使用したのが、なんと『アサルト』の純正コンパネ。
『アサルト』のツインレバーは、4方向にしか動かせない。これが『リブルラブル』において、いかに致命的なミスマッチであるかは、論を待たないだろう。
しばらくして、結局『リブルラブル』は消えてしまった。自分含め、誰かが店舗に進言していれば、まだ運命は変わっていたかもしれない……。


他にも函館キャロットハウスでは、数え切れないほどの思い出が生まれた。
だがこの頃、ほろ苦い経験もしている。

当時よくここに連れ立って来ていたのは、前にも書いた友人のKだ。
よく二人で遊んだりしていたものだが、函館キャロットハウスには「コミュニケーションノート」が置かれていて、そこにも二人でよく書き込んでいた。
今もゲームセンターによっては、このコミュニケーションノートの文化が残っているところもある。しかし、インターネットで手軽に交流が可能な今とは違い、当時はノートしか手段がなかった。
ノートに自分の思いの丈を書き、しばらくしてまた見ると、自分に対するメッセージが書かれている。当時は、たとえ時間がかかろうとも(むしろ時間がかかるからこそ?)、自分のメッセージがちゃんと読まれ、そこにリアクションがあることが、たまらなく嬉しかったのだ。

そしてこのノートを通じて、函館キャロットハウスを根城にする、ゲームサークルが存在することを知った。
自分の書き込みに返事をしてくれる人が、そのサークルの人のようであった。
もう名前も忘れてしまったが、7~8人くらいのサークルらしかった。うち一人は、当時のゲーム雑誌によくイラストを投稿していた、少し名の知れた方のようだった。
伝聞や仮定で書いているのは、じつはこのサークルの方々とは面識がないからだ。唯一、同サークルが発行した同人誌を購入した時に、サークルの一人と接触したぐらいか。
恐らく、遊んでいる時間帯が異なるのだろう。当時キャロットに行くのはだいたい土・日であったし、しかも生真面目に17時には家路に就いていた。仮に平日や、週末でも夜に活動していたのであれば、遭遇する機会は無きに等しい。


毎週土曜日、友人Kとキャロットのコミュニケーションノートに書く日々が続いたある日。
ノートの文面から、件のサークルが不穏な状態になっていることを知った。理由はもう覚えていないが、メンバー同士で対立しているようだった。
何もノートを使ってケンカしなくても……と思いつつも、前述の通りとくに面識があるわけでもなし、対岸の火事の体でノート越しにその状況を眺めていた。

しかし、ある日そこに思いも寄らぬ文章が書かれていたのが目に入る。
「GILくん、Kくんはウチ側についてもらいたい」

書き込んだのは、ノートで揉めていた人の一人だった。
たしかに、当時ノートを介してのみではあるが、そのサークルのメンバーとは交流があった。
しかし、こちらからサークルに入りたいなどと申し出たことは、一度もない。
そういった状況で、なぜ一面識もない人が、サークルの分裂騒動に我々を巻き込むのだろうか?
正直なところ、戸惑いしかなかった。これで、ゲーム雑誌で盛んに言われていた「ゲーセンで友達を作る」という夢から、醒めてしまったのだ。

以後、そのコミュニケーションノートを開くことは、なかったと思う。


そんなことがありつつも、キャロット通いは続けていた。
そもそもサークルの人々と来訪する時間帯が被らなかったのは、逆に幸いと言えるだろう。
翌春にクラス替えを迎え、Kともさほど頻繁につるまなくなっても、自分一人で週末はキャロットに行き続けていた。

そうして、高校生活の3年間が過ぎていった。


  1. 2013/05/19(日) 19:00:00|
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函館ゲーセン・メモリーズ【8】桃太郎

前回のソアラと、前々回のハイテクランドセガ五稜郭店
この2店舗が、五稜郭では当時人気のゲームセンターだった。

だが、五稜郭にはもう一軒、知る人ぞ知るゲームセンターがあった。
ハイテクランドセガ五稜郭店のすぐ上、ビルの2階にあった桃太郎だ。

なぜ「知る人ぞ知る」なのか。
それは、この店がある時期まで、まったく別業種だったからだ。
その別業種とは、「お好み焼き屋」。もともと「桃太郎」という屋号は、このお好み焼き屋時代からのものなのだ。
一度だけではあるが、お好み焼き屋時代に行ったこともある。ここでは人生で初めて、関西風のお好み焼きを食べた。
とはいえ、当時は昼食代をケチってまでゲーム費を捻出していた時代。お好み焼き屋時代に立ち寄ったのは、結局その一度きりであった。

その店が、いつの間にやらゲームセンターになっていた。屋号は「桃太郎」から変わらず。
元が飲食店と言うこともあってか、道路に面した側は全面ガラス張りとなっており、明るく開放感があった。
ここは「ソアラ」と同じくタイトー系のラインナップで、「ソアラ」同様の白い筐体で埋め尽くされていた。一方、ビルの2階でエレベーターもなく、搬入口もなかったことからか、大型筐体ゲームは一台もなかった記憶がある。
そうした面で、1階のハイテクセガとは棲み分けができていたのだろう。同じビルに違うゲームセンターが入っているというのも、今にしてみると珍しいことではあった。

ここのラインナップは、大型筐体抜きでもタイトーの黄金時代を象徴する、煌びやかなものであった。
『ガンフロンティア』『メタルブラック』『キャメルトライ』『チャンピオンレスラー』『メガブラスト』『デッドコネクション』『ダイナマイトリーグ』『苦胃頭捕物帳』『クイズH.Q.』『ハットトリックヒーロー』『ミズバク大冒険』『プリルラ』『カダッシュ』『キャメルトライ』etc.……。
他社タイトルでは、当時の大ヒット作『ファイナルファイト』などの他は、『ギャルズパニック』『タスクフォースハリアー』など渋めのタイトルが並ぶ。そういえば脱衣麻雀は見なかった気がした。
セガの作品が1タイトルも(『テトリス』ですら)なかったのは、さすがに1階を意識してのことなのだろうか。


ここがオープンしてからというもの、ハイテクセガから歩いて(階段を昇って)十数秒ということもあり、連日のようにハイテクセガとハシゴで通い詰めていた。
この頃のハイテクセガは、今までのテーブル筐体が徐々にエアロシティ筐体と入れ替わり、あわせてカプコンの『ロストワールド』『ストライダー飛竜』『ファイナルファイト』といった人気作が続々と稼働し始め、CPシステムが黄金期に突入したことを強く印象づけていた。
他にはセガの『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』『ジャンボ尾崎のスーパーマスターズ』『クイズ宿題を忘れました』『所さんのま~ま~じゃん』『ボナンザブラザーズ』『クラックダウン』『エイリアンストーム』、ナムコ『超絶倫人ベラボーマン』、タイトー『マジェスティックトゥエルブ』、テクノスジャパン『コンバットライブス』、データイースト『エドワードランディ』、アイレム『レジェンド・オブ・ヒーロー・トンマ』、ウェストン『モンスターレア』『オーライル』、ビデオシステム『スーパーバレーボール』『ハットリス』などが稼働していた記憶がある。
脱衣麻雀では『スケバン雀士竜子』『セーラーウォーズ』なんかが稼働していた。カウンターのそばにあった『ヘビーウェイトチャンプ』は、通信対戦版『パワードリフト』に入れ替わっていたが、大きくスピード感が損なわれていて仲間内では不評だった。


そして、この「ハイテクセガ五稜郭」と「桃太郎」で、個人的に共通する思い出。
それは“カツアゲ(恐喝)”だ。
とは言っても、どちらも今となっては笑えるエピソードである。

ハイテクセガの方は、夜近くで店内もだいぶ人がいなくなった頃だったか。見知らぬ男(同年代)が「よお、久しぶり!」と話しかけてきた。
まったく知らない人だったのだが、もともと人の顔を覚えるのが苦手だったこともあり、ここで「誰?」と聞き返すのも失礼にあたるかもしれない。
そこで、「知ってるふり」をして取り繕うことにしたのだ。しばし他愛のない会話で盛り上がる(?)。
そして、頃合を見て「ちょっとお金貸して欲しいんだけど……」と切り出されたのだが、それに対する自分の返事が「いいよ、いくら?」。
我ながらマヌケである。
一応、型どおりにトイレに連れ込まれたのだが、こちらは恐喝されているという意識がゼロだったので、(たしかに借金の話は聞かれたくないだろうけど、わざわざトイレにこもることもないだろうに……)とまで思っていたのだ。
ちなみに被害額は500円。なんとものどかな話だ。

桃太郎の方は、こちらは未遂の話である。
当時、雑誌の攻略記事を参考に『ファイナルファイト』を快調に進めていたところ、ちょっと年上とおぼしき男が隣の空き筐体の席に座り、「うまいねー」と話しかけてきた。
これも今だったら訝しむところだが、当時は雑誌記事のゲーセンで仲間を作ろう!みたいな啓蒙に、まんまと乗っかっていた時代。チャンスとばかりに、その男に対し『ファイナルファイト』の攻略について、こと細かに語り始めたのだ。
レバー上を入れっぱなしで打撃から投げにつながる、ソドムの攻略法、エディ・Eの吐き捨てたガムを拾うと体力大幅回復……実演を交えつつ、かなり長々と話したところで、おもむろにその男は立ち去り、それきり見なくなった。
なので、純粋に腕前を見て話しかけてきたのではなく、やはり何らかの別の意図があったのだろう。それがカツアゲかどうかはともかくとして……。


……と、まあそんな出来事もあったのだが、これらは高校生活3年間ほぼ毎日ゲームセンターに通っていた中の、たった2回のエピソードに過ぎない。
これしきで別段ゲーセン通いに影響が出るわけもなく、足を止めることもなかった。

こうして、帰宅部の青春の日々は過ぎていった。
しかし、“帰宅部の青春”にはもう一箇所、欠かせない場所がある。
それは、函館キャロットハウスだ。


  1. 2013/05/12(日) 23:59:59|
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函館ゲーセン・メモリーズ【7】ソアラ

前回取り上げたハイテクランドセガ五稜郭店は、他にも近くにゲームセンターがあり、当時の学生たちの格好の遊び場と化していた。

そのひとつが、ハイテクセガ五稜郭店から歩いて数分のところにある、ソアラというゲームセンター。
「粂センター」という、飲食店(平たく言えばスナック)が押し込まれた雑居ビル(といっても2階建て)の一画に入居していた。


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大きな通りから一本入った道路沿いに、正面入口があった(建物中央の板が打ち付けられてるっぽいところ)。
だが、いつも寄る時はもう一箇所の入口、スナックの看板などを横目に暗く狭い通路の奥にある裏口から、いつも出入りしていた。


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この地図の、中央の青いシャッターの奥にその通路がある。こちらの方が、大きな通りに面しているのだ。
そういえば、ソアラに寄る時、自転車はどこに停めていただろうか……? もしかしたら、セガに停めっぱなしにしていたかもしれないが、記憶が定かではない。


ここはタイトー系列の店舗だったのか、筐体もほとんどがタイトー製。
前述のセガのシティ筐体ほどではないにしろ、モニタにやや傾斜の付いた真っ白な筐体で、ものによってはヘッドホン端子とボリュームが付いていた。
折しも一人プレイ専用もしくは二人同時プレイタイトルが多くなり、かつてのテーブル筐体によくある二人交代プレイのゲームは少数派になりつつあった。筐体も、ちょうど過渡期にあったのだろう。
とくにヘッドホン端子は、セガでも行っていた生録に活用させていただいていた。

設置されたゲームも、当然ながらゲームもタイトー製品が多かった。
大型筐体でいえば、『ダライアス』『ナイトストライカー』『フルスロットル』『オペレーションウルフ』など。汎用筐体では、『究極タイガー』『バブルボブル』『バトルシャーク』『ファイティングホーク』『フリップル』『バイオレンスファイト』『TATSUJIN』といった作品が記憶にある。
あとはセガの『M.V.P.』もあったりした。

この店で印象に残っているのが、タイトー版テトリス
当時、セガが発売したアーケード版テトリスが大ヒットを記録しており、どこのゲームセンターに行っても『テトリス』が置かれていた。
しかし、タイトー系列のゲームセンターにある『テトリス』は、他とは微妙な違いがあった。
一番わかりやすいのは、だろう。セガ版『テトリス』と比べ、独特の音色をしていた。
あとは「レベルアップ時に背景が変化する時にややタイムラグがある」点もわかりやすい。
一説によると、あまりに『テトリス』人気が過熱して基板生産が追いつかず、タイトーにライセンスを許諾して制作を依頼していたという。恐らく、当時のタイトー系店舗では、ほとんどの『テトリス』がタイトー版だったと思われる。

また、同じく印象深いのが、麻雀ゲームのラインナップだ。
前回のハイテクセガ五稜郭店では、麻雀ゲームと言えば当時の大ヒット作『スーパーリアル麻雀PIII』の他は、日本物産やユウガのタイトルが中心となっていた。
一方、ソアラは同じ『スーパーリアル麻雀』でも『PII』のほうが置かれており、さらにビデオシステムのタイトルが中心に設置されていた。『麻雀放送局』のダイナミックな演出や、大きめの牌表示などには、ニチブツ系とはまた異なる衝撃を受けたものだ。


そして、この店で一番遊んだゲームが、何を隠そうストリートファイターだ。
もちろん、巨大なふたつのボタンが特徴的なアップライト版である。

このゲームには、また別の思い出がある。
高校生になって、修学旅行で奈良と東京に行った時のこと。

修学旅行といえば、自由行動がつきもの。
普通の高校生であれば、観光名所や遊園地に行くのが常だが、当時つるんでいたゲーム仲間たちとは、当然の如くその土地のゲーセンを訪れてまわった。もっとも、最近の高校生なら自由行動で秋葉原とかを巡りそうなものでもあるが……。
奈良はもう名前も忘れてしまったが、雑誌「ゲーメスト」を頼りに店を探し、やっとのことで訪れた店は店内も薄暗く、あまり地元と変わらないラインナップにやや拍子抜けしたものだった。

東京では神保町に行き、古本屋でマンガなどを買いあさったほか、つい先日閉店したゲームコーナー「ミッキー」にも訪問した記憶がある。ゲームのラインナップはもう覚えていないが、看板通りすべてのゲームが50円だったことに驚いたものだ。秋葉原にも行った記憶も、微かながら残っている。

だが、何より印象に残った店舗は、プレイシティキャロット巣鴨店だった。
ここは他の店とも違う、独特のオーラに満ちあふれていた。それはプレイヤーの放つ熱気でもあり、お店の雰囲気でもあり、まさに聖地の呼び声に恥じないお店だった。
そして、その巣鴨キャロットの一画にあったのが、当時としても微妙に時代遅れの作品である『ストリートファイター』だった。
他のタイトルはともかく、この当時すでに設置店が少ないと思われる『ストリートファイター』に、思わぬ地元との共通点を見出せたことが、うれしかったのだ。

波動拳や竜巻旋風脚は出せるものの、昇龍拳はまぐれで一度しか出せなかった。
それでも、調子のいい時はタイステージまで到達でき、調子が悪ければアメリカのジョーに為す術もなく敗北。対戦は一度も遊んだことがなかったが、それでも楽しかった。
修学旅行後は、このゲームで東京との絆というか縁を感じながら、このゲームを一日の締めくくりにすることが多かった。


そんなわけで、自分にとって「ソアラ」と言えば『ストリートファイター』なのだ。


  1. 2013/05/08(水) 23:59:59|
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函館ゲーセン・メモリーズ【6】ハイテクランドセガ五稜郭店

五稜郭」と言えば、函館でも有名な観光スポットである。
そして、地元民にとっては史跡や公園から少し離れた交差点と、その近辺を含めて、“函館第二の繁華街”とも呼ぶべき場所なのだ。

函館の繁華街は、大きく分けて「駅前」「五稜郭」「美原」の3地区になると思われる。
老舗デパートの棒二森屋を中心に、アーケードに専門店が並ぶ函館駅前地区。
以前も触れたイトーヨーカドー長崎屋により賑わいを見せる美原地区。
そして、同じ老舗デパートの丸井今井を核として、若者向けの店が並ぶのが五稜郭地区だ。
五稜郭は近くに高校がひしめいていたこともあり、学校帰りの高校生が立ち寄るレコード屋や洋服屋、本屋やファーストフードなどが軒を連ねていた。


五稜郭公園のすぐ近くにあったのが、ハイテクランドセガ五稜郭店だ。

この店と最初に遭遇したのは、小学生だったか中学生だったか。
五稜郭公園のそばにある美術館に連れて行かれ、その帰り道に店舗の大きなガラス越しに、アフターバーナーのダブルクレイドル筐体を発見したのだ。
当時、『アフターバーナー』といえばシングルクレイドル筐体でしか遊んだことが無く、雑誌でしか見たことのない巨大なコックピットを見て、興奮したことを覚えている。
そうか、あんなところにあったのか…。


その後、首尾良く志望校に合格し、高校生活が始まると、同店にはほぼ毎日のように通い詰めた。
当時の店内は、下図のようなレイアウトだったと思う。

ハイテクセガ五稜郭店店内図

店の自動ドアをくぐると、階段を数段下がって広いスペースの中央に、円筒形のUFOキャッチャー『ドリームキャッチャー』が置かれている。
右手の壁には、大型筐体がズラリと並んでいた。一番入口近くにあったのが、前述の『アフターバーナーII』。ほかには『サンダーブレード』があったのを覚えている。
入ってすぐ左には店員のいるカウンターがあり、そのそばにはさほど大きくない大型筐体ゲーム、初めて見た時は『ヘビーウェイトチャンプ』が置いてあった。その奥の荷物置き場にカバンを放り、自販機でジュースを買ってゲームに勤しむのがお決まりのパターンだった。

店内のテーブル筐体は、当時のセガの汎用的な銀色の筐体だった。スピーカーが1プレイヤー側にあり、黄色いスタートボタンが特徴的である。
それとは別に、壁ぎわにはモニタが斜めに据え付けられたシティ筐体が並んでいた。当時はまだゲームの方がテーブル筐体向けの内容が中心であったため、この筐体には『タイムスキャナー』のような特殊なコンパネのゲームの他は、おもに麻雀ゲームで埋められていた。

荷物置き場や自動販売機の並びには、セガの最新型のテーブル筐体エアロテーブル筐体が2台設置されていた。
従来のテーブル筐体よりも大型のモニタ、コンパネ横に用意されたヘッドホン端子、モニタの横に大きく迫り出したスピーカーの上には、インストラクションカードを背中合わせにして差しこむ、回転式のボードが用意されていた。
入っていたゲームは、たしか『スクランブルスピリッツ』『ソニックブーム』だったか。

余談だが、このエアロテーブル筐体と、斜めモニタのシティ筐体が合わさったのが、後に世を席巻するエアロシティ筐体
「アストロシティ」「ブラストシティ」といった“汎用筐体”を生み出す、アーケードゲーム筐体史を語る上で欠かす事のできない存在と言える筐体だ。


閑話休題。
このお店には、本当にたくさんの思い出がある。

ここで一番お金を注ぎ込んだゲームは、データイーストの『スタジアムヒーロー』だろう。
当時『プロ野球ワールドスタジアム』も入荷されていたのだが、『スタジアムヒーロー』を選んだ理由はひとつ。「ファイナルセットゲーム」の存在だ。
当時の野球ゲームは、たいてい1クレジット(対戦なら2クレジット)で3回裏までしか遊べず、試合終了まで遊ぼうとすると最低6クレジットかかる。しかし、「ファイナルセットゲーム」は最初から4クレジット投入すれば、試合終了まで遊ぶことが可能。金欠の高校生にとっては、何よりありがたいシステムであった。
仲間内で遊びまくったせいか、少なくとも一年以上は同店で稼働していたと思う。

他には、セガの『エキサイトリーグ』も、単純にトラックボールを使って投球するのが楽しくてしつこくやり込んでいた記憶がある。
セガ系では『ギャラクシーフォース』『テトリス』『忍』『ゴールデンアックス』『スーパーモナコGP』『エースアタッカー』『クラックダウン』『ゲイングランド』『獣王記』『ターボアウトラン』『タフターフ』『DJボーイ』『フラッシュポイント』『レッスルウォー』等々も、このお店で初めて触れたものだった。
一方、なぜかデータイーストの作品もコンスタントに入荷されており、『バーディーラッシュ』『ヘビーバレル』『ロボコップ』『ファイティングファンタジー』『アクトフェンサー』『コブラコマンド』などの姿を覚えている。
さらに、当時大ヒットしていたコナミ『グラディウスII』や、ジャレコの『P・47』『実力!! プロ野球』、SNKの『バトルフィールド』などもあった。
麻雀ゲームは『スーパーリアル麻雀PIII』『麻雀刺客』『七対子』などが記憶にある。そして、一部で異形の作品として有名な危機一髪真由美ちゃんも、記憶のどこかに……?


また、思い出深い出来事も幾つかあった。
いくつかの出来事は、当時ゲーム雑誌への投稿ネタとしても使ったりした。

例えば、当時発売されて間もないメガドライブが、ドリームキャッチャーで人形を獲得すると引けるクジで当たるキャンペーンがあり、カウンターの奥に置かれた残り一台のメガドライブを手に入れるべく頑張ったものの、店員との会話でじつはすでに当てた人が取り置いてるだけで、完全に徒労だったことが発覚したこともあった。
(ちなみに、当時ゲーマーはゲーセンの店員と仲良くなるべし、というゲーム雑誌の刷り込みもあって、よく店員のおじさんたちに話しかけてもいた。)
また、メンテナンスの人が『スーパーモナコGP』の圧縮空気を抜いてしまい、営業中の店内にものすごく大きな音が響きわたった珍事もあった。


そしてこの時期、自分にとって一番大きかったのは、高校でクラスメイトとなった“K”の存在だろう。
山本正之と小森まなみを愛し、自作のDJ風テープを録音するなど多趣味な男だった。当時「斉藤洋美のラジオはアメリカン」を愛聴していた自分とは、たびたび(おふざけで)対立したりもしていた。
さらに、当時ゲームミュージックが趣味となっていた自分にとって、Kは数少ない理解者となってくれたのだ。

Kの協力を得て行ったのが、ゲームミュージックの「生録」だ。
これまでも、小型マイクを筐体のスピーカーに押し当てて、一人でゲームミュージックを録音したことはある。
それがKというパートナーを得たことで、ヘッドホン端子を使うなど録音の精度が向上。さらに録音した音源を、Kがノイズの低減などのミックスを行い、これまでのマイクを通じた雑音まみれの音とは段違いのクオリティに仕上げてくれたのだ。
これで最初に録音したのが、前述の『エキサイトリーグ』。筐体のスピーカーから聞こえる音よりも、当然ながら音がハッキリと聞こえ、今まで耳にしていたものより数段上の重厚なサウンドに、ラジカセの前で興奮したものだった。
Kとのコンビでは、他にも『琉球』などをこの店で生録した。

さらに、この店で自分の中学時代のクラスメイトだったTとばったり再会、声をかけようとしたところ、じつはKとTが小学校時代のクラスメイト同士で、思わぬ関係性に全員が驚いたこともあった。


他にもたくさんの思い出が、この店とともにあった。
そして、この他にも周辺にはゲームセンターが軒を連ね、それぞれの店でまた違った思い出が刻み込まれていくこととなる。
そうした複数の店舗の集合体が、そのまま当時の高校生活の思い出を彩る遊び場として、今も記憶の奥に息づいているのだ。


  1. 2013/03/16(土) 23:59:59|
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函館ゲーセン・メモリーズ【5】函館キャロットハウス(1)

いよいよ、この店について書くときが来た。

函館ゲーマーの聖地。
それが函館キャロットハウスだ。


この店が聖地と呼ばれる理由を知るには、まず1980年代のナムコが、いかにゲーマーに神聖視されてきたかを知らねばならない。

斬新な発想に基づく、質の高いゲームの数々。
筐体から流れる、重厚なハーモニーと幻想的な楽曲。
時に愛らしく、時にカッコ良く、時に笑える魅力的なキャラクターたち。
真似してノートに何度も何度も描き写した、素晴らしいデザインのロゴ。
それらを元にしたキャラクターグッズの数々。
そして、ファンと直接コミュニケーションを図ってきた、無料配布の季刊小冊子「NG」etc.……。
そうした他に類を見ない試みの数々が、奇跡的に(あるいは必然的に)同時期に折り重なったことは、「ナムコ」というゲームメーカーを特別な存在に位置づけるに十分すぎる理由だった。

「キャロット」という店名も、またナムコらしさの一環だろう。
『スペースインベーダー』を契機に、人が集まることとなったゲームセンター。そこには、招かれざる客も来ることとなり、結果として「不良の温床」などという汚名まで被ることとなった。
そうした負の印象を払拭するため、ナムコは直営店舗に「キャロット」という名前を使い、かわいらしいニンジンのイラストとともにイメージ転換を図ったと思われる(ラジオCMでは「パステルなゲームスペース」というキャッチコピーが付けられていた)。


初めて函館キャロットハウス(以下キャロット)に来たのは、前述の小冊子「NG」を手に入れるためだった。

小学何年生の頃かは忘れたが、青函連絡船に乗って青森まで行った際、たまたま立ち寄ったデパートの玩具売り場で、たまたま置かれていた「NG」を手にしたのが、今にして思えば運命的だった。
この「NG」を、友達同士で回し読みし、やがて「イトーヨーカドー函館店の向かいにあるゲームセンターにも、これが置いてある」という情報を聞きつけることとなった。

初めて行ったキャロットは、『ポールポジションII』『スターウォーズ』が並んで置かれていた。
窓際にはパンチングマシーンの『ノックダウン』、壁ぎわにはアタリの『ガントレット』もあったと思う。
テーブル筐体には、『ギャプラス』『モトス』『バラデューク』といったナムコゲームが、さも当然といったように並んでいた。
そうした光景も、ときめきを感じさせるには十分な材料だった。

だがそれ以上に、キャロットという空間の居心地の良さに、安堵をおぼえていたのかもしれない。
道路に面した側は一面のガラス窓で、格別の開放感があった。
奥のショー・ウィンドウには、下敷きやキーホルダーなどのナムコオリジナルグッズが多数並べられていた。
カウンターには前述のNGやチラシ等のほか、いわゆるコミュニケーション・ノートも置かれていた。
マッピーのイラストが描かれたメンバーズカードを店員さんに見せると、スタンプを押してもらえた。
ところどころに置かれた観葉植物や、床の市松模様に至るまで、それらすべてに温かみの感じられる、特別な空間だったのだ。


しかしキャロットは、自宅からはかなりの距離があった。
もちろん、平日の放課後に行くことなどほぼ不可能なので、通い詰めることなど叶わない。行くことができたのは週末、それも当時土曜日は「半ドン」であったため、おもに日曜日ぐらいだった。
その分、行くと決めたら朝一番に乗り込むこともあった。
10時30分のオープン前、ニンジンのイラストが描かれたシャッターの前で待ち、開店と同時に店内に突入。『グラディウス』が起動時に流す「バブルシステム・モーニング・ミュージック」を聴くことが、マニアならではの密かな愉しみだった。

それからほんの数年のうちに、数々の思い出が、キャロットで生まれていった。

新製品沙羅曼蛇の専用筐体(コンパネ部分にステレオスピーカー付き)が入荷され、その画面の美しさと音の広がりに感動を覚えたこと。
カウンターに置かれていたイシターの復活の最短ルート冊子「ザ・リターン・オブ・イシター号外」に、驚嘆しつつ釘付けとなったこと。
3DサンダーセプターIIのスコープ越しの3D表現に、度肝を抜かされたこと。
少ない小遣いをやり繰りして、初めてのナムコグッズマッピー下敷きを購入したこと。
パックマンのイラストコンテスト」や「クエスターの面アイディアコンテスト」に、絵心もないのに自信満々で応募したこと。
ナムコが提供していたラジオ番組斉藤洋美のラジオはアメリカンのイベントが、棒二森屋の屋上で行われ、その時に撮影された写真がキャロットに展示されていた(希望者は購入もできた)こと。
受験を控え、塾に通うようになってからも、たびたびサボタージュの果てにキャロットに立ち寄っていたこと。
降りしきる雪をかき分けてドアをくぐり、暖かい店内で見るギャラガ'88の星空が美しかったこと……。


雑誌Beepを毎月購読し、急速にテレビゲームにのめり込んでいった10代前半。
後先考えずに買った新明解ナム語辞典を読みふけり、日曜深夜にラジアメを聞いていたナムコ漬けの日々。
その中において、函館キャロットハウスは間違いなく、重要な位置を占めていたのだ。

≪(2)につづく≫


ザ・リターン・オブ・イシター号外
▲当時キャロットにて無料配布されていた「ザ・リターン・オブ・イシター号外」。“イシター復活推進委員会”なる組織の作だが、おそらくナムコ自身が作成・配布したのでは……?


  1. 2013/01/30(水) 23:59:59|
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函館ゲーセン・メモリーズ【4】ダイエー湯川店のゲームコーナー

湯の川といえば、函館市外の方にとっては温泉地として知られているかもしれない。
だが、地元民にとって湯の川とは、ごく普通の町という印象がある。
実際、地元民はそんなに頻繁に温泉に入るわけでもなし。函館市電(路面電車)の終点と、函大付属有斗高校(野球部が強いことで知られる)があるという、ありふれた町のひとつでしかない。

ここに、ダイエー湯川店というスーパーがある。
地上2階建て、元は「ホリタ」という系列の店舗で、1967年からある店舗だという(調べたらWikipediaに項目があって驚いた)。
中も生鮮食品や書店、文房具屋などが並ぶ、これまたごくありふれた地域住民御用達のスーパーだ。

しかし、ここにあるゲームコーナーのラインナップのマニアックさは、幼少時に強烈な記憶を刻みつけてくれた。
そのマニアックさを書いてみたい。


元々は、地方スーパーによくある、非常にこぢんまりとしたゲームコーナーだった。
最初に見たときは、2階の昇りエスカレーター付近の小さなスペース。
テーブル筐体が数台と、休憩用のベンチに灰皿。買い物中の母親が子どもを遊ばせ、買い物中の妻を待つ夫がヒマをつぶすような場所だ。

この時に見た記憶のあるゲームは、アルファ電子の『将棋』『ジャンピューター』など、やはりありふれたラインナップ。
しかし、その中に当時まだ名の知られていないカプコンの、アーケード第1作『バルガス』があるなど、今にして思えば当時からマニアックな気質の片鱗を感じさせていた。
(『バルガス』を見たと言うことは、1984年時点での話である。)


その後、1985年頃に、このゲームコーナーはグッと増床される。
エスカレーターを昇って左の斜め前に、テーブル筐体が20台以上並ぶほどに拡充された。
通路を挟んで反対側(エスカレーターで昇った正面)には、子供向けの遊具(いわゆる木馬)が並び、ちょっとした遊園地状態に発展したのだ。

そのゲームのラインナップだが、これが新旧取り混ぜてカオスなものとなっている。
古いところでは、『バイオアタック』『アルペンスキー』『ポートマン』『ジャングルキング』『エレベーターアクション』『ワイルドウェスタン』『タイムトンネル』『ロッククライマー』……といった、当時(1985年頃)から見ると時代遅れのゲームが並んでいた。……記憶の糸を辿るとタイトー作品ばかりであることから、そういう方面からまとめて入荷したのだろうか。
他にはSNKの『ラッソ』なんかも記憶に残っている。

さらには、『ギャラクシアン』『パックマン』『タンクバタリアン』純正アップライト筐体も並んで置かれてた。
今考えると、非常に貴重な光景が見られたことになる(しかし当時は、やはり大音響で爆音を鳴らす『タンクバタリアン』が怖くて、ほとんど近づけなかった)。

一方で、新作・人気作もまた積極的に入荷されていた。
『ソンソン』『空手道』『イー・アル・カンフー』『ドラゴンバスター』『ディグダグII』『エグゼドエグゼス』『バラデューク』『テディボーイブルース』『戦場の狼』『ごんべぇのあいむそ~り~』『青春スキャンダル』『イシターの復活』『源平討魔伝』『アレックスキッド ザ・ロストスターズ』『ダブルドラゴン』etc.……。
80年代中盤を代表するゲームは、軒並み置かれていた記憶がある。
変わったところでは、大型筐体の『スーパースピードレースJr.』『バギーチャレンジ』なんかも設置されていた。

そして、1986年には、あのアウトランまで入荷されたのだ(もちろん稼働筐体で)。
『アウトラン』は当時の友達同士で話題となり、とくにそのBGMはゲーム・ミュージックに目覚めていた者にとって、驚嘆すべきクオリティであった。
さっそく同店にラジカセを持ち込み、生録に挑む者まで現れ、そのカセットテープは仲間内でまわし聴きされていった。
折りしも同年は雑誌「Beep」にて、『スペースハリアー』や『カルテット』などのBGMが収録されたソノシートが付属。それは世のゲーム小僧たちに大きな衝撃を与え、後のゲーム・ミュージックの隆盛につながる確かな礎となったのだ。


閑話休題。

そんな一介のスーパーのゲームコーナーとは思えないこだわりを見せていたダイエー湯川店ではあったが、隆盛は長くは続かなかった。
80年代の終わりには、2階の広々としたスペースを追われてしまう。
移転先は2階からさらに上。屋上駐車場と店内を結ぶ階段のある、ほんのわずかなスペースに追いやられた。冬ともなると、屋上駐車場に人が出入りするたびに、ドアから冷気が流れ込んでくるような悪条件で、明らかにゲームには向かない場所である。
それでも、末期には大型筐体ゲームの『エンフォース』が置かれていたこともある。このチョイスもまたマニアックなものだったが、それもやがて電源が切られたまま放置されるようになり、ゆるやかにその役目を終えていったのだ。


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1980年代の中盤という、アーケードゲームの技術が飛躍的に向上し、大きく発展していった黄金期。
そのわずか数年間を、独自のチョイスで鮮やかに切り取っていき、瞬く間に燃え尽きていった。
ダイエー湯川店のゲームコーナーは、そんな遊び場だった。


  1. 2013/01/21(月) 23:59:59|
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函館ゲーセン・メモリーズ【3】イトーヨーカドーのゲームコーナー

函館にイトーヨーカドーと長崎屋が出来たのは、80年代の前半頃だったと思う。

そのときの函館市民の歓迎っぷりは、すさまじかった。

なにせ、コンビニなんてものもない時代。買い物といえば、生鮮食品を売るスーパーか、高級なイメージのあるデパートぐらいしか選択肢がなかった。
そこに、広々とした店内に家電も洋服も生鮮食品もあって、本もおもちゃもレコードもあれば、ちょっとした食事もできる「ショッピングモール」的な店舗の出現は、一種のカルチャー・ショックと言えた。
当時は連日、「オープンまであと○日お待ちください」というカウントダウンCMが流されていたあたり、市民の期待がうかがえよう。

イトーヨーカドーと長崎屋は、ほぼ隣り合って建てられており、どちらも同じように市民に愛されていた(余談だがイトーヨーカドーは、元は「ショッピングセンターいちい」という店舗のあった場所に建てられ、ビル名も「イチイビル」という)。

だが、アーケードゲームに限って言えば、イトーヨーカドーの方が充実していた。
長崎屋にもゲームコーナーはあったが、正直あまり印象に残っていない(80年代に『ハイパーオリンピック』で鉄定規を使っている人を見たことと、90年代にセガの『レーシングヒーロー』が置かれていたぐらいしか記憶がない)。
そして長崎屋は、現在MEGAドン・キホーテ函館店へと変わってしまった。

今回は、イトーヨーカドー函館店(以下「ヨーカドー」)のゲームコーナーについて書いてみる。
ヨーカドーのゲームコーナーは、地下1階から2階まで、時期によりさまざまに流浪してきたのだ。



地下1階の時代(1980年代)

一番冷遇されていた時期にして、一番古い記憶では、なんと言っても地下1階の階段の下、普通だったら物置にしか使われないようなスペースに置かれていた時期だろう。
記憶の糸をたどりつつ、先日その跡地を写真におさめてきたのが、コレ。


イトーヨーカドー函館店の階段下

この右側の除雪用具のある奥の部分。
当時は仕切り的なものも何もなく、ただ階段下のスペースにテーブル筐体が何台か置かれていたのだ。


イトーヨーカドー函館店の階段を斜め上方から

斜め上方から見たところ。
右側の踊り場部分の下に、ゲームが並べられていた。

階段の真下なので天井も低く、頭をぶつけないようにかがみながら、数台のテーブル筐体に向かい合う人々。端から見てると、まるで苦行のような状況だったが、それでも当人達は楽しんでいた。
ここには『ルート16』があったことを覚えているが、他のゲームに関してはまったく記憶がない。


次に、同じ地下1階の、今度は店の一画にちゃんとしたスペースが設けられ、そこに移動した。
ゼビウスの銀色ポスター(「ゼビウス感覚…」というキャッチコピーが書かれていた)が飾られ、オレンジ色の小さなアップライト筐体に『ニューラリーX』『アタック・オブ・ザ・UFO』『バーニンラバー』『クレイジーコング』といったタイトルが置かれていたのは覚えている。

しかし、ここで一番よく遊んだのは、子供向けのメダルゲーム機動戦士ガンダムだろう。
ルーレットを回して、\ガンダムー/ とぅるっとぅるっとぅるっ、とか遊ぶアレだ。
子供にとっては、それぐらいが怖がらずに、飽きずに遊べたのだろう。当時のビデオゲームは、やはり子供にとっては異世界のものであった。

この場所での営業は長く続いたようで、その後『アフターバーナーII』のシングルクレイドル筐体が置かれ、子供がお金も入れず無邪気に操縦桿をガチャガチャやっていたのを、注意してどかして遊んでいた記憶も、おぼろげながらある。


1階の時代(1990年代)

その後、90年代前半ごろになって突如、1階の大通りに面したガラス張りのスペースに進出した。
というのも、一介のゲームコーナーではなくなり、セガの系列テナントセガワールド函館が入居したのだ。

当然ながら、ここではセガのゲームが充実した。
『パワードリフト』『ダークエッジ』、アーケード版の『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』などが置かれていた記憶がある。
『ラッドモビール』『バーチャレーシング』『アウトランナーズ』なんかは、この店で初めて遊んだ。
また『バーチャファイター』なんかもここで見て、衝撃を受けたものだった。

個人的には、ここで『アウトランナーズ』をひたすらやり込んでいた。
裏ワザで、左右の選曲ボタンを同時に押すと「ジングルベル」が流れるのだが、クリスマスイブにそれをBGMにして遊んでいた……なんて思い出もあったりもする。

ほかにも子供用の遊具などもたくさんあり、親にとっては買い物に連れてきた子供をここで遊ばせておき、中高生はこの近辺にはない大きなセガの直営店として遊ぶ。
まさにゲームセンターとして、理想的な状況にあったのだ。
この頃が、一番輝かしい時期だったと言えるだろう。

しかし、90年代半ばには自分が地元を離れてしまったこともあり、その後の顛末は不明瞭だ。


2階の時代(2000年代?)

次に見たときには、すでに2階のわずかなスペースに追いやられていた。

恐らく、セガがテナントから撤退したのだろう。
窓際の広々としたスペースはファーストフード店となり、ゲームはほんのわずかな筐体が、2階で稼働するのみだった(それでも『バーチャファイター4』が稼働していた記憶はある)。


現在も、ヨーカドーのゲームコーナーは、2階で営業を続けている。
ゲームは『太鼓の達人』『マリオカート アーケードグランプリ2』などが設置され、他にはプライズマシンが並べられている。

かつての「親が買い物に連れてきた子供を遊ばせておく場所」という役割は残ってはいるものの、もうひとつの「中高生が最新ゲームを遊ぶ」という場所では、もうなくなってしまった。
しかし、それでもイトーヨーカドー函館店がオープンしてから続いているとおぼしきゲームコーナーは、今もその歴史を途絶えることなく、子供達に遊びを提供し続けているのだ。


大きな地図で見る

イトーヨーカドー函館店の大通り沿いのガラス張りスペース。
この内側がすべてゲームコーナーだった時期もあったが、もはや遠い昔の話……。


  1. 2013/01/14(月) 23:59:59|
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