最近ブログ記事転載が続いてますが、ちょっと中休み。
先日またも秋葉原をちょっとうろついたところ、
東京レジャーランド秋葉原店 と
クラブセガ秋葉原新館 の『ドルアーガの塔』の配置が、ちょいと変わってました。
クラブセガ秋葉原新館は、島単位で場所が変わった感じで、エスカレーターで昇ってきた正面方向になります。
後ろには大型筐体の
『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド2』 『L.A.マシンガンズ』 があるので、それが目印となります。
東京レジャーランド秋葉原店は、こうなりました。
まあ隣の筐体が増えて、島のはじっこではなくなった感じです。
でもって、東京ドルアーガ事情@6月末は、こんな感じ。
Hey は変わりない感じです。
高田馬場ミカド もそろそろチェックしに行きたいですね。稼動ゲーム情報を見るかぎり、どうやら2階に移動したようですが…?
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2011/06/30(木) 23:59:59 |
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IN ANOTHER TIME IN ANOTHER WORLD...
『ドルアーガの塔』 の、有名なストーリーの出だし部分である。
なんとなく、映画『スター・ウォーズ』の有名な序文
「A long time ago in a galaxy far,far away....」 を想起させるが、デモ画面で表示されるわずか13行のストーリーに、当時のプレイヤーの誰もが魅入られ、さまざまに想像を膨らませたのは『スター・ウォーズ』と同じ…としても過言ではない。
このゲームが今もなお根強い人気を誇っている大きな理由に、そのストーリーが挙げられるのは異論のないところだろう。
当時公開されたストーリーは、大まかに書くとこのようになる。
――今とは別の時間、別の世界。人々は神を敬い、愛と戦いの女神・
イシター に仕える巫女の信託により、王国は栄えていた。
空の神
アヌ は天上界に
“ブルー・クリスタル・ロッド” を置き、その輝きが愛と平和をもたらしていた。
しかし、“ブルー・クリスタル・ロッド”を狙った帝国が王国に攻め入り、王国は壊滅。帝国は天上界の“ブルー・クリスタル・ロッド”に届くような塔を造りはじめ、塔が高くなるにつれ“ブルー・クリスタル・ロッド”の光が遮られ、王国にロッドの輝きが届かなくなってしまう。
そして、女神イシターに封印されていた悪魔
“ドルアーガ” が、復活を遂げてしまった。
アヌ神は帝国を戒めるべく、雷を落として塔を崩落させる。そして、神々は人間を見限ってしまう。
その隙にドルアーガは、その魔力で塔を修復し、天上界から“ブルー・クリスタル・ロッド”を盗み出し、塔の崩落で死んだ帝国軍の軍勢を、モンスターとして塔の中に放ち、“ブルー・クリスタル・ロッド”を封印して塔にたてこもった。
王国の王子・
ギル(ギルガメス) と、巫女・
カイ は恋人同士であった。
ギルは奴隷となり、塔建造の人夫として働かされていたが、塔の崩落時に岩の下敷きとなってしまう。王国の再建を目指す二人を、唯一見守っていた女神・イシターは、カイに魔法のティアラを授け、ドルアーガを倒すために塔へ遣わせた。
しかし、カイはドルアーガの魔力に屈し、捕らわれの身となってしまった。
ギルはおおいに嘆いたが、その声を聞いたアヌ神は、ギルに勇気を力に変える黄金の鎧を授けた。
ギルは、カイを救い、“ブルー・クリスタル・ロッド”を天上界に戻すため、ドルアーガの塔へ挑んで行く――
この物語(実際にはもっと細かい)は、当時のナムコ発行の季刊誌「NG」に掲載され、のちにゲーム雑誌や攻略本でも紹介されることとなる。
遠藤雅伸の前作となる
『ゼビウス』 において、シューティング・ゲームのバックボーンに
SF小説「ファードラウト」 を書き上げたことは、当時すでに話題となっていた。
そして、この『ドルアーガの塔』においても、それまでのゲームとは比較にならないほど濃密な世界が詰め込まれていたのである。
「お姫様がさらわれた。あなたは勇者になり、お姫様を助けよう」という、ありきたりな定型に到底収まりきらないストーリー。
『ゼビウス』の世界に多くのプレーヤーが惹き込まれたのと同様に、その背景に広がる広大な世界に、またしても多くの人々が魅入られることとなったわけだ。
また、このゲームの
ポスター が『ドルアーガの塔』という世界に惹き込むための、強烈な色香を放っていた。
ジオラマとイラストを組み合わせた、アメリカン・コミックスのようなデザインは、あのドット絵から想像を膨らませるに十分過ぎるほどの燃料となった。
とりわけ、ポスターの左下で救いを待つカイのイラストに、どれだけ多くのプレイヤーが奮い立たされただろうか。
さらに、さりげなくゲームの進行方法が学べるようになっているなど、単なるゲームの告知に留まらない洗練された優れたデザインが、ひときわ異彩を放っていた。
同デザインは、ナムコ製グッズの下敷きやポストカードにも使われ、ナムコ直営店にて販売されていた(また前述のNG誌でも通信販売を行っていた)。これらはコレクターズ・アイテムとして、現在も復刻版が登場したり、当時の品物がオークション・サイトで高値で取引されるなど、根強い人気がある。
また、ポスターの右下に何気なく書かれた文字
「TO BE CONTINUED」 …これは「つづく」という意味。
つまり、
このゲームはこれで終わりではない、やがて何らかの形で続きがある …それはゲームとしての続編かもしれないし、小説など他のメディアに場を移すのかもしれない。
あるいは…という風に、わずか十数文字の言葉に、プレイヤー達はさまざまな可能性を議論し、夢を膨らませた。
そして、この物語は多くのプレイヤーにとって、
“ファンタジー” という世界に触れる端緒ともなっている。
1984年当時、いわゆる「剣と魔法の世界」を舞台にしたゲーム
『ウィザードリィ』 や
『ウルティマ』 、
『ダンジョンズ&ドラゴンズ』 などは、日本でもプレイされてはいた。しかし、それらはごく一部の限られた趣味人による、極めてマニアックな遊びに留まっていた。
「剣と魔法の世界」は西洋のおとぎ話でしかなく、
『ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)』 も今とは比べものにならないほど、マイナーな存在に過ぎなかった。
そこに遠藤雅伸が、バビロニア神話を元に西洋ファンタジーのテイストを存分に盛り込んだ、独自の設定による“ファンタジー”を構築。
それは当時のプレイヤーたちに、ギリシャ神話とも異なる幻想的な世界を垣間見せ、カルチャーショックを与えた。
後に続編でさらなるストーリーが紡がれ、やがては
“バビロニアン・キャッスル・サーガ” という神話となり、多くの人々に篤い支持を受けた。
さらには2008年という世の中に、原典の発表からじつに24年後もの歳月を経て、
地上波アニメやオンラインRPG というメディアに至ったのは、その練り上げられたストーリーや世界に由るところが大きいと言えるだろう。
『ドルアーガの塔』が世に出てから、すでに四半世紀が過ぎた。
忘れ去られたゲーム、「名作だったなぁ」としみじみ振り返るゲームは数あれど、『ドルアーガの塔』は今もって熱狂的なファンたちに、深く愛され続けている。
こんな作品、そうはないだろう。
2011/06/29(水) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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『ゼビウス』の遠藤雅伸 が、満を持して発表した作品第2弾。
それが
『ドルアーガの塔』 だ。
ゲームに新風を吹き込ませた黒船が放つ、次なる作品とはいかなるものか。『ゼビウス』に魅せられたファン達は、こぞって塔に挑み始める。
ゲームは中世の騎士のようなキャラを動かして、塔を昇っていくゲーム。
前作『ゼビウス』とはうって変わって、アクションゲームになっている。ボタンはわずか1個で、ジャンプも出来なければボタンの組み合わせで多彩な攻撃、という要素もない。
最初の1~3階で、おおよそこのゲームの趣旨は理解できる。
剣を出しながら敵に向かって歩くと、敵を倒せること。カギを取ってから扉に向かうと、その面がクリアできること。そして、敵を何匹か倒すと、宝箱が出現し、それを開けるとアイテムが手に入ること。
だが、4階からは「敵を倒す」ことが宝箱出現のトリガーにならず、
「カギを取らずに扉を通過する」 という条件に変わる。マジシャンという見慣れぬ敵と相まって、このゲームがそう簡単に済むようなゲームではないことが、ここでわかってくる。
そして階を進むにつれ、見慣れぬ敵が次から次へと現れる。
呪文が炎に変わる緑色のマジシャン、いかにも強そうな黒い戦士、そして色が違うだけかと思いきや、突如呪文を吐いてくるスライム。敵の多種多様さに、底知れぬ奥の深さを肌で味わうことになる。
さらに、宝箱の出し方も、徐々に一筋縄ではいかないものになってくる。とりわけ7階の
「1階で取ったツルハシを壊す」 というものは、半ば度胸試しに近く、13階の
「途中で扉を通過しつつ敵を全滅させる」 は、「扉を通過する」でも「敵を全滅させる」でもない、いわば複数の条件が絡み合ったものだ。
そんな複雑怪奇な塔を、攻略情報を慎重に積み重ねつつ登っていく…『ドルアーガの塔』とは、そういうゲームだったのだ。
このゲームを構成する柱は、大きく3種類に分けられる。
ひとつは
「アクションゲーム」 。
これは単純に、剣を出して敵を倒すことの爽快感を指す。また、剣を出してはいけない状況が存在するため、堪え忍ぶ鬱屈とそこからの解放が、爽快感を増幅させてくれる。
さらに、そこに「宝箱を出現させるための条件をクリアする」という命題が与えられ、それが「戦略を練る」というゲームとしての“深み”を醸し出してくれるのだ。
もうひとつは、
「ロールプレイングゲーム」 。
階が進むにつれ、どんどん強くなっていく敵。それを、各種アイテムにより操作キャラクターを強化していき、その積み重ねによって困難を打破することで、今までとは異なる達成感が得られるわけだ。
たまに上層階に序盤のザコ敵が出現することがあるが、これは強くなった操作キャラクターがザコ敵を一瞬にして屠ることで、自身が強くなったことを実感させるための配慮なのかもしれない。
そして、最後のひとつは
「謎解き」 。
各階で宝箱を出すための条件を探るための、いわば開発スタッフとの、ひいては遠藤雅伸との“知恵比べ”だ。
この謎解きが、マニアにとっては大いなる試練と化した。
前述の通り、序盤は宝箱の出し方もまだ素直なものだが、やがて意図的に試すにはハードルの高いもの、突拍子もない発想のものなどが設定されている。
その調査や確定には、大変な手間と時間、そして莫大なゲーム料金を要した(これがプレイヤー間での情報交換を促し、初期のゲームサークルの礎となったとされる)。
しかも、取ったからといって意味のないアイテム、特定のアイテムを先に取らないと正しい結果とならないアイテム、ゲームクリアに必要不可欠なアイテムなど、その種類も千差万別。
出し方も謎なら、アイテム自身の効果も謎であった。
『ゼビウス』 の場合、いわゆる隠しキャラであるソルやスペシャルフラッグは、その知識があればゲーム進行やハイスコア争いに有利になることこそあれ、ゲーム進行に「必須」というわけではなかった。
ところが、この
『ドルアーガの塔』 では、そうした
隠しキャラが「必須」 なのである。
隠しキャラの知識がなければ、ゴーストは壁をすり抜けるときにしか姿を見せず、壁も見えず、カギも扉も見えず、やがてはどんなに天運が味方しても、59階に立ちはだかる悪魔を倒すことは叶わない。まさに不条理きわまりないゲームなのだ。
しかし、このゲームは高いインカムを稼ぎ出し、果ては当初予定の『マッピー』基板のROM交換では足らず、新たに基板を生産するまでに至った。
遠藤曰く「ROM交換のC級作品」でしかないこの作品が、結果としてプレイヤーに多大なる支持を受けたのは何故か。
それには、紛れもなく『ゼビウス』が世に与えた
“遠藤雅伸作品”のイメージ が貢献しているだろう。
前作『ゼビウス』という作品は、ゲームの中には底知れない“世界”が秘められていることを、我々に教えてくれた。単なるキャラクターを動かして敵を倒して…という遊びの原則に留まらない、何かがそこにある。
その「何か」が何であるか余人には窺い知れぬ、いわば
“奥底が知れないことの恐怖” が、プレイヤーを強く惹きつけた結果となったわけだ。
そうした「実績」と、現に目の前の『ドルアーガの塔』で示されている数多の
「謎」 が、プレイヤーに『ゼビウス』と同等の(あるいは異質の)魅力に映ったと言えるだろう。
それがどんなに不条理であったとしても、『ゼビウス』を経たプレイヤー達にとっては、
「解き甲斐のある謎」 になるわけだ。
逆に言うと、『ゼビウス』より先に『ドルアーガの塔』が発表されていた場合、世の中はどうなっていたことだろうか。
ナムコ黄金期の名声も、遠藤雅伸が後に独立に至ったのも、果てはバビロニアン・キャッスル・サーガの行方も、今とはずいぶん違ったことになっていたことだろう。
それくらい『ゼビウス』という作品は、『ドルアーガの塔』の評価に大きな役割を果たしているとしても過言ではない。
音楽グループの
YMO(イエロー・マジック・オーケストラ) は、かつて「テクノポリス」や「ライディーン」を収録したアルバム
『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』 が大ヒットを飛ばした。
オリコン1位獲得、ミリオンセラー達成、日本レコード大賞アルバム賞受賞などを記録し、小学生にまで名が知られる存在となった。
その後、ワールドツアーやライブアルバムなどを制作し、いずれも余勢を駆ってヒットを記録する。その一連の「実績」の後で、問題作とも言える
『BGM』 をリリースしたのだ。
暗く重い雰囲気は、『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』に見られたわかりやすいポップさとは正反対とも言える内容だった。
後にYMO作品で一、二を争う傑作とまで呼ばれるこの作品、リーダー・細野晴臣の弁によると
「売れた後だからこそ、やりたいことができた」 というもの。
この
「故意犯」 とも言うべき発想、まさに『ドルアーガの塔』と重なるものがあると言えるのではないだろうか?
結果的に、ゲームとしては特殊な作品になったものの、三部作で構成されたストーリーを世に出した時点で、まさに「やりたいことができた」と言える。
『ゼビウス』で大いなる実績を手にした遠藤雅伸が、それを盾にして思うがままに創り上げたゲーム、それが『ドルアーガの塔』なのだ。
さて、今回引き合いに
『ゼビウス』 を出したが、これもあくまで人気を集めたことの「切っ掛け」でしかない。
『ドルアーガの塔』 の魅力は、やはりその内容の先進性であり、過去に類を見ない仕掛けの数々である。
2011/06/28(火) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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前回、『ドルアーガの塔』を褒め称えるために、どうしても避けて通ることのできない
『ゼビウス』 を褒め称えた。
なぜ避けて通ることが出来ないのかはさておき。
今回は“創造主”とも言うべき、
遠藤雅伸 について書いてみる。
遠藤雅伸は1981年ナムコに入社。
当時開発中だったシューティングゲームのプロジェクトを引き継ぎ、1983年に
『ゼビウス』 として世に送り出した。
驚くことにゲームはこれが処女作で、それでありながら当時世の中に与えたカルチャーショックは、多大なものがあった。
『スペースインベーダー』 ブームの収束以後、風営法の改正もあって、ゲームが世間の耳目を集める機会は数少なくなっていった。そんな中、『ゼビウス』が果たした役割は大きい。
「新人類」 と当時呼ばれた、旧来の既成概念に囚われない若者が増えたこと、また世がいわゆる
“マイコンブーム” を迎えており、コンピュータという存在が身近になってきていたという下地もある。
だが、この作品のエポックメイキングさが、世の中の注目を集める直接的な原因であったことは、間違いない。
例えば、NHK教育の若者向け深夜番組『YOU』(司会:糸井重里)をはじめ、各テレビ番組に『ゼビウス』とともに
「ゲームデザイナー」 遠藤雅伸が出演。当時は
“新人類の旗手” とまで呼ばれ、その発想や発言はインタビューやコラムを通じて広まり、話題を呼んでいた。
さらに、当時大人気を誇っていた音楽グループ・YMOのリーダー、
細野晴臣 との交友も生まれるなど、80年代の文化に与えた影響は少なくない。
細野は後にナムコゲームの楽曲を集めたアルバム
『ビデオ・ゲーム・ミュージック』 をプロデュースし、それがゲーム音楽のアルバム化の嚆矢となったわけだから、この分野も大元をたどれば遠藤および『ゼビウス』が発端となったわけだ。
後日、ナムコを退社し独立してからは、いよいよ多方面にわたり活躍。
ファミコン用ソフト『機動戦士Zガンダム ホットスクランブル』では、
「遠藤雅伸、Zガンダムに命を吹き込む」 というキャッチコピーとともに、本人がひたすらプログラミングを続けるという内容のテレビCMまで放映された(つまり、当時は「Zガンダム」のブランドと「遠藤雅伸」のブランドは、少なくともゲームプレイヤーに対しては双璧と考えられていたと言えよう)。
またゲーム・ミュージックのアルバム『ハドソン・ゲーム・ミュージック』ではピアノを弾き、アニメ雑誌などでインタビューや対談が掲載されるなど、多方面にわたる活躍を見せていた。
ただし、当然のことながらあれだけの作品を、全て一人で作り上げたわけではない。
多くの人々のアイディアや助けを借り、『ゼビウス』が出来上がったことは、言うまでもない。
細野との交友も、前衛音楽を得意とする
慶野由利子 (代表曲『ディグダグ』『フォゾン』『ドラゴンバスター』etc.)によるあの優れたBGMがなければ、ひょっとしたら生まれていなかったかもしれない。「多くのスタッフを代表しているだけです」とは、かつて某巨大掲示板での本人の弁である。
しかし、やはりその核心を創り上げたのは、紛れもなく遠藤である。
その異才ぶりは、これまでのインタビューや掲示板での本人のコメントを見れば、一目瞭然であろう。単なるSFマニアやプロジェクトマネージャーではないのだ。
また、ゲームの制作者が、ここまで各メディアに露出し、その言動が注目されたことは、未だかつてないことであった。
『スペースインベーダー』の
西角友宏 、『パックマン』の
岩谷徹 など、当時の世間一般にも名が知られたゲームの開発者は、まったくもって知られていなかったのだ。
もちろん、それらのゲームが発売された時期とは状況が違っていたのかもしれないが、それでも“ゲームデザイナー”という肩書きを名乗り、ゲームを作る側に目を向けさせた功績は大きい。
この後、『ドラゴンクエスト』を大ヒットさせた堀井雄二や、ビッグマウスぶりで話題を集めた飯野賢治、“スーパーマリオ”の生みの親・宮本茂など、単体でも名が広く知られるゲームデザイナーは増えていった。
だが、そのパイオニアと言えば、間違いなく
遠藤雅伸 になる。
このように、ゲームのみならずその周辺においても、『ゼビウス』、ひいては遠藤雅伸がもたらした影響は、計り知れない。
これが今もって、遠藤が多方面から多大なるリスペクトを集め続けている要因のひとつだろう。
ゲームデザイナーとして一躍名を上げたとなると、必然的に次回作に注目が集まる。
その頃の遠藤本人の状況は、『ドルアーガの塔』研究室内・
邪神の啓示 に詳しいが、次なるCPUへの対応のため勉強がてらゲームを試作しつつ、当時頭に浮かんでいた壮大な三部作ストーリーを纏めていた。
プロトタイプであった作品を見た上司から製品化を打診されるも、ストーリーを三部作の最初から見せたいとした遠藤は第一作目の制作を提案。結果的にはそちらでゴーサインが出る。
当時インカムが落ちていた『マッピー』の基板を用い、世に出回っていた基板2000枚のROMのみを差し替えることで、生産コストを下げるという手法を考案。さらに早くからアイディアが固まっていたためか、開発は驚くほどスムースに進み、わずか半年で遠藤雅伸の“次回作”は完成した。
それが、
『ドルアーガの塔』 である。
2011/06/27(月) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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ゲーム発売から20年以上経過た2008年、アニメーションやオンラインゲームになるなど、休息に再び注目が集まってきた
『ドルアーガの塔』 。
では、なぜ今になって、このような再評価がされてきたのだろうか?
近年、こうした新しいメディアから『ドルアーガの塔』という名を知ったため、そもそもの元となったゲームのことを知らない人たちも数多く存在する。
そこで、一度原点に立ち返り、
『ドルアーガの塔』 とは一体どのようなゲームだったのか、あるいはどのようなムーブメントだったのか。
満身の愛 をもって、このゲームの説明をしてみたいと思う。
とはいえ、このゲームについて説明する前に、触れておかねばならないゲームが存在する。
それが1983年に発表された、縦スクロールシューティングゲーム
『ゼビウス』 だ。
『ゼビウス』の前年までに発表されたナムコゲームは、日本はもとよりアメリカでも大ヒットした
『パックマン』 を筆頭に、『ギャラクシアン』『ラリーX』『ギャラガ』『ボスコニアン』『ディグダグ』『ポールポジション』といった、いずれも高い評価を得た作品ばかり。
その独創的なゲームの数々から、プレイヤーの間にも“ナムコ”という名前の認知が広がり、まさに輝ける黄金期が幕を開け始めた時期だった。
そんな中に登場した新作『ゼビウス』は、さまざまな部分で従来のゲームと、
あまつさえそれまでのナムコ作品からすら、一線を画する大変画期的なもの だった。
まず、中間色を多用した美しいグラフィック。それまでのナムコゲームに見られたキャラクターのカラフルさは一切なく、灰色のグラデーションを用いたグラフィックで、無機的かつ立体的なキャラクターを作り出すことに成功。
また、「空中物と地上物の撃ち分け」というアイディアは、常に目新しさが求められるシューティングゲームにおける一つの革新的要素であった。
さらに、巨大ボスの先駆けとも言える
「アンドアジェネシス」 は、その過剰とも言える攻撃と威圧的な効果音も相まって、プレイヤーに恐怖感を植え付け、征服欲をかき立てた。
そして、非常に重要なのが
「隠しキャラクター」 。
「ソル」 と
「スペシャルフラッグ」 のふたつの隠しキャラは、「プレイヤーが特定の操作をすることで、公にはなっていない仕様上の現象が起きる」という概念を、ゲーム史上初めて生み出した。
その有用性(ソルは出現で2000点・破壊で2000点と得点が高く、スペシャルフラッグは自機が1機増える)もあって、プレイヤーは競うように隠れた場所を捜索。その
「隠しキャラの出現場所を知っている」という知的優越感 は、やり込んだプレイヤーに新たな悦楽をもたらした。
また、そこからプレイヤー間の情報共有、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』の発行といった、新たなるコミュニティの礎にもなったことは、副産物的効果と言えるだろう。
しかし何より、『ゼビウス』最大の特徴と言うべきものが、
“謎” だ。
『ゼビウス』のキャッチコピーは、
「プレイするたびに謎が深まる」 というものだが、この“謎”は前述した隠しキャラクターのことに限らない。
中空を回転しながら飛来し、いかなる攻撃も不思議な音を立てて防いでしまう「バキュラ」。
前述したアンドアジェネシスを倒すと、中心部から上空に消え去る謎の物体「ブラグザ」。
マップに突如現れる、巨大な「ナスカの地上絵」。
何かを告げに現れ、去っていく「シオナイト」etc.…
これらはゲームが稼働した当初、本当に
“謎” であり、どういう意味や意図があるのかがさっぱりわからなかった。
わからなかったからこそ、プレイヤーの想像力を大いにかき立てた。
それがゆえに、本来仕様である現象や画面表示、単なるバグでさえもが、この
“謎” の一部として様々な憶測を呼び、また数多の都市伝説を生み出すこととなった。
やがて、ゲーム雑誌でその奥深い世界設定の数々が明るみに出ると、プレイヤー達は『ゼビウス』が、今まで出たゲームとは何もかもが次元が違うことを、改めて思い知らされたのだ。
単なる
“謎” ではない、意味のある、名前もある、何らかの意図のある
“謎” 。
単なる遊びの道具でしかなかった「テレビゲーム」というメディアが、それ以上のものに、いや他のメディアを遙かにしのぐ、
全く新しい次元のエンターテインメントになるのではないか …『ゼビウス』は、そんな未知なる可能性をプレイヤー達に知らしめ、プレイヤー達はその予感に胸を躍らせた。
ゲームは所詮ゲームでしかない、などという枷は、一体誰が嵌めたのだろうか。
この『ゼビウス』というゲームは、きわめて高密度・高水準にあるシューティングゲームという表の顔と、数々の謎や知られざる世界設定を秘めた物語の一端という裏の顔を、同時に持ち合わせている。
ゲームの完成度の高さが“謎”を活かし、そして“謎”がゲームに底知れぬ奥深さを与えるという、相互に魅力を増幅し合う関係となっているのだ。
ブロック崩しに始まったテレビゲームは、
『スペースインベーダー』 でプレイヤーに能動的な自由が与えられ、
『パックマン』 で頭脳を持ったかのような敵が登場して、より遊びとしての醍醐味が増していった。
そしてこの
『ゼビウス』 の登場が、テレビゲームに新たな方向性を指し示したとしても、決して過言ではない。
やがて、このゲームを通してとある人物が、一躍名を知られることとなった。
その者の名は、
遠藤雅伸 。
世界で初めて、
“ゲームデザイナー” と呼ばれた男である。
2011/06/26(日) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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1993年の事だったと思う。
ファミ通(当時はまだ「ファミコン通信」)に、ドルアーガシリーズの新作
『ザ ブルークリスタルロッド』 の速報が掲載されていたという一報を、友達から聞かされた。
当時の記事を保存しておいたわけではないので、その内容もだいぶうろ覚えのものとなってしまった。
記憶に残っているのは…いわゆるサウンドノベルのようなアドベンチャーゲームであること、ゲーム中のグラフィックが篠崎雄一郎氏の原画がふんだんに使われたものであること、そして当時のトップハードで円熟期を迎えていた
スーパーファミコン で発売されるということ。
とはいえ、翌年にプレイステーションとセガサターンが発売されているので、当時すでにそれらの情報は出ていたような気もするが…。
発売はその翌年(1994年)。つまり、1984年に
『ドルアーガの塔』 が発売された10年後の節目となるのだ。
これは否が応でも、期待が高まるところだろう。
そして発売されたゲームは、賛否両論を極めた。
厳密には、
「否」 の声の方が多かったと見ていいだろう。
ゲーム内容は、ギルとカイがいかにしてブルークリスタルロッドを天界に返しに行くかが、さまざまなエピソードで語られるもの。その進め方により、シナリオや結末が異なってくるわけだ。
しかし、そこで語られる内容は、いわゆるアドベンチャーゲームの感覚で見ると
極めて情報量が少ない。 各地の迷路などを進んでいった先に、何らかのイベントが発生し、そこでちょっとした会話を交わすと
「もうここに用はないはずだ」 と追い返される。そしてバビリムの街に戻り…を繰り返していくのだ。
そして、そうしたやりとりを3~4回繰り返すと、もうシナリオは終わりを迎える。
ひとつのシナリオの開始から終了まで、慣れてなければ1時間ほど。
要領をつかんでしまえば、やることは基本的にどのシナリオでも変わらないので、慣れれば
30分もあれば1シナリオの結末が見られる ことになる。
ゲームとしての「否」の声は、この
「ゲーム性の低さ」 に起因するものが多いと思われる。
当時流行のサウンドノベルに比べると、何度もプレイする必要があるという共通点があるぶん、どうしても「遊び心」という面では見劣りする。
ただ、これは逆に「何度も遊ぶ」という点ではゲームの解法に意識を持っていく必要がなく、純粋にシナリオを楽しめるという点では、むしろ適切なのかもしれない。
そしてそのシナリオに関しても、これまたプレイヤーを選ぶものであった。
予備知識のないプレイヤーのために、タイトル画面で「プロローグを見る」という項目を選ぶと、それまでのストーリーが画像付きでダイジェストとして説明される。それで最低限の知識は得られるが、
「知識として知っている」 のと
「思い入れがある」 のとでは、各シナリオを見ての感想(というより感慨)も違ってくるだろう。
このゲームには、48種類のシナリオがある。
その中には、王道を行くハッピーエンドから、かなり衝撃的なものまで用意されている(後者はそのぶん、かなりひねくれた選択肢を選ばないと見られないが)。もちろん、好きなシナリオもあれば嫌いなシナリオもあるだろう。
遠藤雅伸氏いわく
「何も考えず自然にたどったシナリオが、その人にとってのBCSの結末と思ってほしい」 とのことであった。それがゆえの、48ものシナリオなのである。
ちなみに、セーブ可能ヵ所は50ヵ所にも及ぶので、エンディング手前でセーブしておけば全てのエンディングをいつでも見られることになる。
この作品は「ゲーム」というより、「ファンソフト」と表現した方がいいかもしれない。
プレイステーションやセガサターンが全盛期を迎え、CD-ROMによるゲーム供給が標準的なものとなってからは、いわゆる「ファンディスク」の存在も認知されていった。特定のゲームのファンに向けて作られ、貴重な資料集やミニゲームなどを収録した、まさにファンのための作品。
そしてこの
『ザ ブルークリスタルロッド』 は、ゲームを簡素化してまで、ファンに向けた48ものシナリオを詰め込んだ作品と言ってもいいだろう。
これこそ
CD-ROM時代に先駆けた、早すぎる「ファンソフト」 だったのではないだろうか?
もし仮に、このソフトのリリースがあと1~2年後ろにシフトしていたら、あるいは次世代機でのリリースになり、内容ももっと違ったものになり、もっと違った評価を受けていたのかもしれない。
2011/06/25(土) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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1992年6月、PCエンジンにおいて
『ドルアーガの塔』 が発売された。
ここで、昔の家庭用ゲーム機への移植について語っておきたい。
ゲームの移植というのは、とくにファミコンにおいては取りも直さず
「アーケードゲームの移植」 のことであった。
ファミコン初期のタイトルである『ドンキーコング』や『ポパイ』、そしてナムコ参入時のタイトルも当初ほとんどがアーケードからの移植作で占められていた。
その後、長いファミコン時代(とファミコンへの苦難に満ちた移植時代)を経て、PCエンジンやメガドライブ、スーパーファミコンが登場。家庭用ゲーム機の表現力は一気に高まり、そこでも再び最新アーケードゲームの移植が重要なキーポイントとなっていた。
だが、おもに移植されるのはあくまで最新の、もしくは大ヒットしたアーケードゲームである。
表現力が高まったのであれば、昔のアーケードゲームなら完璧に移植できるハズ。
しかし、それでもPCエンジンの『ドラゴンスピリット』、スーパーファミコンの『ファイナルファイト』など、
多少無理をしてでも新しいゲームを移植する 、という流れはファミコンの時代と変わりはなかった。
もちろん、やがて開発技術の向上により、新しいゲームの移植でも再現度が格段に上がり、名移植も多く生まれた。
しかし、「新しいアーケードゲームを移植することがユーザーの求めること」という風潮は、ずっと変わらず続いていたのだ。
その一方で、PCエンジンなどにおいても、
「ちょっと昔のヒットゲーム」 を移植する動きが徐々に出はじめた。
その先鞭とも言えるのが、1989年にPCエンジンに移植された
『パックランド』 だろう。
グラフィックはもちろん、BGMの音色がナムコの当時の音源とよく似ており、移植度は素人目に見て非常に高かった。ゲーム雑誌でも、5年前のゲームの移植という「古さ」を批判するのではなく、その再現度の高さを賞賛する評価が多く見られた。
そうした流れは、やがて他メーカーにも波及し、のちにプレイステーションにおける「ナムコミュージアム」シリーズで開花。「最新のハードで昔のゲームを懐かしむ」という楽しみ方が、メーカーにもユーザーにも定着することになる。
さて、その流れの真っ最中、1992年に登場したのが
PCエンジン版『ドルアーガの塔』 である。
この移植はPCエンジンの円熟期に行われ、またそれまで『源平討魔伝』などの移植もあったことから、アーケード版の忠実な移植作になるものと思われた。
やがて雑誌などで公開された画像では、美麗に進化したグラフィックやデモ画面でヒントをくれるイシター様(
『カイの冒険』 と似たような構図)などが判明し、果たしてどのようなものになるのか期待も高まった。
…しかし、実際にプレイしてみると、迷路の構成は縦横比が同一になり、さらに宝箱の出し方やアイテムなども異なるものとなっていた。
また、ギル自身のパラメータを設定できたり、IIボタンでアイテムを使用するなど、随所に新しい要素が取り入れられている。反面、期待した「アーケードの移植」はなく、良きにつけ悪しきにつけ
“リメイク” という表現がもっともふさわしい作品となった。
もちろん、90年に『ドルアーガの塔』の関連作品がリリースされること自体、すでに異例ではあったので、そこは喜びたいところ。
だがしかし、あのゲームの再現を求めた人々には、逆に肩すかしを食った内容であったとも言える。
この作品は遠藤雅伸氏の入魂作で、
「本来『ドルアーガの塔』はこんなゲームにしたかった」 という思想のもと作られた作品である。
それはゲームシステムなどにとどまらず、バビロニアン・キャッスル・サーガという、この一連のシリーズにおける基本設定においても、であった。
つまり、『カイの冒険』とともに
重要な設定を『ドルアーガの塔』というタイトルで再定義した 、という意味でもリメイク作品なのである。
とりわけ、単なる“偽イシター”としての役割しか与えられていなかったサキュバスを、ドルアーガの暴走を止める重要なキーポイントして定義づけた点は、元々の『ドルアーガの塔』とは最も大きな相違点といえよう。
この作品までで固められた設定が、次の
『ザ ブルークリスタルロッド』 におけるバビロニアン・キャッスル・サーガの完結において、ギルの運命を左右する要素となったのである。
余談だが、このPCエンジン版のパッケージに描かれたロゴは、「THE TOWER OF」の文字が中央のクオックスのシルエットよりも大きくはみ出し、さらに文字色が黄色く(フチのみ赤のまま)変化した。
このロゴが、現在のバンダイナムコにおける公式なロゴとなっており、PSP版『ナムコミュージアムVOL.2』などでもそれが確認できる。
2011/06/24(金) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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『ドルアーガの塔』の中でも、異端中の異端とされるのが、いわゆる
“アトラクション版” 。
1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」に設置された、ライド型光線銃アクションゲームの『ドルアーガの塔』だ。
花博終了後は、東京のナムコ・ワンダーエッグに移築され稼働し続けていたが、そのワンダーエッグも2000年12月31日に閉園となり、現在このゲームで遊ぶことは出来ない。
このゲームに関しては、2001年から自サイト(
『ドルアーガの塔』研究室 )にコラムを掲載していた。
今回はそれを転載する。
The Far Away of GOLD KNIGHT ――11年目の“おめでとう”―― 20世紀とともにその幕を閉じた、ナムコの都市型テーマパーク『ワンダーエッグ』。
ここに、『ギャラクシアン
3 』と人気を二分するといわれているアトラクション『ドルアーガの塔』があった。
内容は、テレビゲームの『ドルアーガの塔』とはまったく異なるもので、自動的に進むゴンドラ(ライド)に乗り、“魔法の剣”と呼ばれる光線銃で塔内に巣食うモンスターを倒して行く、という自走式光線銃ゲームのようなもの。
ただ、世界設定が『ドルアーガの塔』のものを使っており、そのぶんファンには思い入れも強まるアトラクションと言える。
思えば、このアトラクションとも、もう11年もの付き合いになる。
――と書くと、不思議がる方もいるかもしれない。なにせ、ワンダーエッグは1992年2月29日のオープン。実質オープンしていたのは、8年と11カ月ほどしかない。
だが、このアトラクションには、前歴がある。
じつは『ドルアーガの塔』は、1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会(通称・花博)」に、『ギャラクシアン
3 』とともにアトラクションとして設置されていた。
そして、当時学生だった自分は、本来の目的を隠して親に「花博に行きたい」と直訴し、遠く北海道から一人旅を敢行したのだ。
――だが、このときの『ドルアーガの塔』の記憶は、非常に薄い。
当時は、最先端の技術を駆使した『ギャラクシアン
3 』のほうに魅力を感じており、ひとりではなかなか遊びづらい『ドルアーガの塔』には、あまり目が向かなかったのである。
結局のところ、1回程度しか遊んでいないのではないか……その程度の記憶しかない。もちろん、カイを救出してゴールドナイトなど、夢のまた夢だった。
そして時計が1992年を過ぎる頃。
ナムコの都市型テーマパークは想像以上の盛況を見せ、とりわけ当時のマニアにとって伝説的な存在であった『ギャラクシアン
3 』と『ドルアーガの塔』が遊べるという点から、数多くのマニア連中も全国から呼び寄せることとなった。
当時、ちょうど上京した時期と重なる自分自身も、通いつめるというほどではないが友達と何度か遊びに行った。
何度か、と但し書きを付けたのは、熱狂的なマニアのクセに本当に数えるほどしか遊びに行ったことがなかったからだ。
というのも、もともとワンダーエッグには、開園当初“50カ月の限定開園”という時限装置がついていた。
4年ちょっとだが、それでも時間に限りはある――そう考え、通いつめたリピーターも多かったのだろう。ドラマの舞台になるなど、大成功を遂げたテーマパークからは、いつのまにか時間制限が消えていたのだ。
だが、閉園が速まるのならまだしも、「終わることがない」ということであれば、嘆く理由はどこにもない。
「いつでも遊べる」――そんな安心感が生まれたからか、都心に程近い位置にありながらもワンダーエッグに率先して行く気はなくなってしまった。だって、いつ行ってもワンダーエッグはそこにいてくれるのだから……。
悪い報せは突然、何の前触れもなくやってくる。
2度目の変身を経た『ワンダーエッグ3』には、再び開園期限がついた。
思えば、このときにもっと真剣に受け止めるべきだったのかもしれない。「どうせ、またリミットブレイクするよ」――そう見当をつけた人々は、のちにこの時間制限が本当のものであったことを知り、後悔する。
閉園の真相は、関係者ではないのでわからない。不況による収益不足、二子玉川の再開発にともなう整理、あるいは単に天寿を全うしただけのこと……さまざまな憶測が乱れ飛んだが、どうあれワンダーエッグがこの世から消えてなくなる、という事実だけは確かだ。
だが、そうした運命を否定しつつも、心のどこかで信じつつも、忙殺という現実の前に「ゴールドナイトになろう」という考えは、なかなか沸いて出てこなかった。
「閉園までに行けばいいさ」――胸中に一度巣喰った怠惰の虫は、危機感をひどく鈍磨させていた
2000年12月26日。
悪い癖だ。子供の頃から、本当の瀬戸際にならないと物事をはじめようとしない。
この日、ようやくワンダーエッグに行く決心がついた。
渋谷から東急新玉川線に乗り、揺られること数分。車窓から東急二子玉川駅の遠景が見えた途端、胸の高鳴りが加速した。
ここに来るのも、もう何年ぶりだろうか。少なくとも、前に来たときは二子玉川「園」駅だったし、ワンダーエッグも「2」だったはずだ。
過去の記憶をたぐり寄せても、5年は遡らなければならない。しかも、その時『ドルアーガの塔』をプレイした明確な記憶もないため、実質的な間隔は不明だ。
しかし、それでも『ドルアーガの塔』は、以前と変わらぬ顔で待ちかまえていた。
『ミラーナの心理迷宮』も『バーチャルビークル』も、すでにない。時代の嗜好とテクノロジーに合わせて進化をつづけてきたワンダーエッグにおいて、数少ない「変わらざるもの」のひとつが『ドルアーガの塔』なのだ。
挑戦は幾度もつづいた。
冒険をともにした友人も、音を上げることなくついてきてくれている。
しかし、それでもドルアーガの守りは堅固なものだった。
5年ものブランクなど何処吹く風で、途中までは快調に進む。アイテムを獲得し、ドラゴンを難なく退け、そしていざドルアーガとの対決へ――しかし、8本の腕に4本の足を持つ魔王は、無常にも挑戦者の希望を絶望に変えてしまう。
もちろん、ライドが4人乗りである以上、ふたりだけで遊ばせてくれることは少なく、だいたいが見知らぬ人とトリオ(orカルテット)を結成することとなる。
若いカップルとともに挑戦するも、敗北。
子供たちといっしょに果敢にチャレンジしても、ダメ。
年輩の女性ふたりは、ハナからドルアーガを倒そうという意欲すらなく、話にならない。
幸運にも友人とふたりきりで挑戦できても、それでもドルアーガは右手に握りしめた魔法の剣をものともしない。
もはや顔も覚えて(そして覚えられて)しまったアトラクターの方々に、毎度毎度コツを伝授してもらうのも、もはや馬鹿馬鹿しい。出口を出たら入口に直行する――そのくり返しだった。
不安が胸中に暗雲を呼び寄せる。もしかしたら、結局『ドルアーガの塔』をクリアせぬまま、永久に別れを告げねばならないのか……そんな暗澹たる未来を予想しては、おぞましさに震える。気が滅入っていたのは、気温の低さだけが原因ではないはずだ。
そんな無限地獄の恐怖に脅えつつ、もう何度目か数えてもいない挑戦。
アトラクターの説明を振り切り、ライドに乗って魔法の剣を振りかざした。
それまでとはちがい、この挑戦にはわずかな光明が感じられた。
後列に乗っている男――やや小太りで人の良さそうな風貌、そして何より背中と手にパックマンを宿らせた、ただならぬ気合いと決意。
この人と一緒ならば、あるいは……一縷の望みは、確実にターゲットを撃ち抜いていくその腕前で確信に変わりつつあった。
曲がり角の先にいるドラゴンすら、その姿が見えたとほぼ同時に左手のターゲットは消え、早々に倒されてしまったのだ。
そして、2枚の扉の向こうに、脅威が鎮座している。
我々の挑戦をことごとくはねのけた、魔王・ドルアーガ――。
その威厳に満ちた形相は、さっきまで勝利を確信していた我々に容赦なく恐怖を植え付ける。
しかし、しかし……無情にも前進を止めないライドから、魔法の剣に“勇気”をこめ、引き金を引きまくった。
右手ターゲット撃破、左手ターゲット撃破。ここまでは何度となく実現させてきた。
そして、最後のまだ見ぬ世界へ向け、ドルアーガの喉元へ向け、魔法の剣を振りかざす――
「ビッ」
ビッ?
消えた――消えた!
鈍い効果音とともに、ドルアーガの最後のターゲットは消滅し、最後の聖域に通じる扉が、開かれた。
やった!!! やったぁー!!!!!!!!
目の前に姿を現すカイ……。ついに、1990年の夏に花博で初挑戦して以来、約11年目にして、はじめてクリアを達成することができた。
「おめでとうございまーす!!!」
アトラクターに祝福され、ゴールドナイトの証・シールを手渡されたときも、全身の震えは止まらなかった。歓喜の極みが、全身を沸騰させる――。
夢心地で出口を出てから、何ら面識のないパックマンの男に、頭を下げまくった。彼は笑って必勝法を教えてくれ、そして夕闇に消えていった。
実際、コツ――ひとつのターゲットに複数の光線を当てると、それぞれ打ち消し合ってしまうので、ひとつのターゲットはひとつの銃でのみ狙う――を聞いてからは、過去の苦悩と恐怖が嘘に思えるほど、あっけなくクリアできた。
計3回ゴールドナイトに輝き、うち一度はほとんどひとりでドルアーガを倒せてしまった。
わかってしまえば、なぁんだと思える、他愛もない必勝法。
しかし、あの光景――想いを込めた魔法の剣が、はじめてドルアーガを打ち破った瞬間。
11年の歳月をかけてたどり着いた、ゴールドナイトの座。
そう、ゴールドナイトになったんだ。
あの一瞬は、あの感動は、そしてゴールドナイトの誇りは……絶対に忘れない。
今あらためて見てみると、やたら「――」を多用した文がすごく青臭くはあるが、あえて原文にほぼ手を加えず転載した。
余談だが、ワンダーエッグ閉園後、光線銃を初めとする什器(?)は、抽選でプレゼントしていたらしい。
つまり、あの光線銃やら説明のパネルやらの現物を持ってるラッキーな方が、この世のどこかにはいるらしい。そして自分は、アンラッキーなことに抽選には外れてしまった。
あれから6年以上経過し、当時の情景もだいぶおぼろげになってきた。
だが、このアトラクション版『ドルアーガの塔』が、完全に影も形もなくなってしまった今。
つたない記憶ではあるが、まだまだ“ゴールドナイトの誇り”を無くすわけには、いかないのだろう。
2011/06/23(木) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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『カイの冒険』 では、それまでに明らかになっていなかった各種設定が明るみになった。
それは公式設定が深まり、より広い世界が見えたこととなったが、反面それまでゲームブックや同人誌などで築かれてきた“妄想”が、正しいものではないことを突きつける結果ともなった。
では、肝心のゲームはどうだったのか。
自分がこれを手にすることが出来たのは、発売から約2年後になるのだが、それでもその感覚は鮮烈であり、今までに経験したことのないものだった。
やはりその最たる特徴は、
“慣性” にあるだろう。
普通に走るにしても、出足はやや鈍く加速度が付き、止まろうにもボタンから手を離しただけでは、すぐには止まらない。
ジャンプもまた特殊で、Aボタンを押すとやや加速を付けつつ、途中からはエレベーターのように等速で上昇し、Aボタンを放しても徐々に減速してから止まり、そこからまた等速でゆっくり降り続けるのだ。
設定上にある
「勇気を身軽さに変えるティアラ」 とは、ここまで厄介な代物なのかと思ってしまう。そのくらい操作はデリケートで、思い切りの良さと精度の両方が必要とされる。
のちに遠藤氏より語られたところによると、海外の
『メジャーハボック』 (1983年・アタリ)のサイドビューアクション面をもとに作られたという(エンディングにもスペシャルサンクスに「アタリ『メジャーハボック』開発チーム」と記載)。
だが、さすがに当時そのゲームを知る人はかなり少なかったハズ。自分も残念ながら、実際にそのゲームを見たことすらない。
今となっては、
『ドルアーガの塔』 のプレ・ストーリーとしての存在意義もさることながら、そんな個性的かつ知られざるゲームを、ファミコンという大きなステージで広めたことに、歴史的な意義があったと言えるだろう。
さて、その発売から約2年後に手に入れた
『カイの冒険』 。
60階までクリアするのは、ゲーマーと呼べる人間ならさほど難しくはないと思う。
実際、自分も「敵に接触してミスした場合、その敵は消える」というルールにも助けられ、何度となくエンディングは見たことがある。
エンディングは遠藤氏曰く、
「史上初のバッドエンドしかないゲーム」 とのことであったが(その後ギルが助けに行く必要があるため)、重厚な音楽と合わせてこのエンディングも好きであった。
FC版『ドルアーガの塔』の頃と比べ、グラフィックから“ポーズ時に流れるクレジット音”まで見違えるほど完成度が高くなっており、4年という月日がもたらした進化を実感させてくれる。
だが、60階までならそんなことを楽しみながらプレイも出来るが、
“スペシャルステージ” と銘打たれた61階以降は、そうもいかない。
エンディングを見せたあとのオマケとあってか、難易度も格段に向上し、情け容赦ない構成の面が押し寄せる。
「風が吹き、空中にいる間は横方向に流される」といった60階までになかった要素もあるわ、いやらしい動きの新しい敵も多数登場するわ。まるで60階までは練習で、61階以降が本番であるかのような凄まじさだ。
おまけに、60階までは途中でワープをすることによりルートの短縮が可能だが、スペシャルステージでは短縮どころか、下の階に戻される
“逆ワープ” しか存在しない。
100階までの全40面を、噛みしめながら地道に登っていくしか道はないのだ。
60階までは頑張れば道は開けるし、ワープでショートカットも出来る。その果てにエンディングを見ることが出来る。
しかし、61階以降は先程までの優しい顔はどこへやら。同じゲームでも、こんな二面性を持った作品も珍しいのではないだろうか。
また、前2作『ドルアーガの塔』と『イシターの復活』は、宝箱の出し方やルートなど予習が必要不可欠なゲームであった。しかし、この作品は“隠し要素”的なものがほとんどなく、手の届く範囲で努力すれば先に進めるゲームであった。この入口の敷居の低さは、特筆すべきだろう。
今までのシリーズ作品にない
優しさ と、その奥にある
意地悪 。その絶妙なバランス、また丁寧な作りとコンセプトの明確さからも、このゲームは今もって“傑作”と、自信を持って言える。
余談だが、ある日
「電源を入れっぱなしにして全面クリアに挑戦しよう!」 と思い立ったことがある。
このゲーム、コンティニューは無限に出来るが、パスワードなどによるデータ保存はない。そのため全面クリアを目指すのなら、その間
ファミコンの電源を切ってはいけない わけだ。
かくして、夜がんばる→電源を入れたままテレビだけ消して寝る→朝学校に行く→学校が終わったらがんばる→…という生活を、3日ほど続けた。
…が、しかし、とある面でうっかり前述の“逆ワープ”を取ってしまう。
“逆ワープ”は、宝箱を開けてから数秒後に効果が発動するので、その間にミスをするか、逆ワープ完了前にファミコン本体のリセットボタンを押せば、未然でその効果が防げる。
だが、3日間もファミコンの電源を入れっぱなしにし、ひたすらコンティニューを続けていると、何故だか
リセットボタンを押すことにものすごい抵抗を感じる のだ。
効果発動前にミスしようとするも、あの特徴的なカイの動きではそれもままならず、リセットボタンを押せばいいのに、なぜか手が動かない。
かくして、3日間の苦労も水の泡となり、無念の思いでファミコンの電源を切った。
それ以来、全面クリアを志したことは、一度もない。
2011/06/22(水) 23:59:59 |
ドルアーガ論
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『イシターの復活』 (ナムコ・1986年)で、ギルとカイは塔からの脱出に成功。
これにてシリーズは完結…と思われていたが、1988年になってファミコンオリジナルのタイトルとして
『カイの冒険』 のリリースが発表された。
その立ち位置は、『ドルアーガの塔』の前のエピソード。
ストーリー上でしか語られていなかった、
「ギルが負傷で床に伏せっている間、カイがイシターの命で単身塔に向かう」 という部分を、ゲームにしたものだった。
いざその姿が雑誌などで紹介されると、前2作とはまた異なる雰囲気に、ファンは驚かされることとなる。
■ いくつもの設定が明らかに 『ドルアーガの塔』『イシターの復活』当時は明らかになっていなかった、数々の設定がデモ画面で明かされた。
ギルたちの出身国である
「バビリムのまち」 、そこを流れる川
「ユーフレイト」 、ギルの父親である
「マーダックおう」 、バビリムに攻めてきた敵国
「スーマールていこく」 とその長
「バララントこうてい」 …。これらは皆、この作品で初めて公にされた設定である。
また、カイがイシターより賜った
「勇気を身軽さに変えるティアラ」 は、
『ドルアーガの塔』 においてギルが賜った
「勇気を力に変える鎧」 と好対照をなし、ゲームシステムに無理なくとけ込んでいる設定として感心させられた。
■ イメージイラストが篠崎氏ではない 前2作までを遠藤・内藤・小沢・篠崎の4氏が中心となって手がけていたため、この「チーム・ドルアーガ」とも言うべき面々が『カイの冒険』でも中核をなすもの、と当然のように思われていた。
ところが、パッケージをはじめとする各種イラストを手がけたのは、篠崎氏ではなかった。
スタッフロールによると、パッケージイラストを手がけたのは
「チャーミー そのえ」 氏。また、漫画家・イラストレーターの
ときた洸一 氏が、パッケージイラストの“仕上げ”と取扱説明書のイラストを手がけている。
ときた氏は当時
『えりかとさとるの夢冒険』 やPCエンジン版
『ワンダーモモ』 など、一連のパッケージイラストを手がけている。
その流れからすると、決して不自然ではないのだが…“シリーズのイラストは篠崎氏”という印象があっただけに、それが覆ったことの違和感は大きかった(なお、ゲーム内で表示される画像の元イラストは、篠崎氏のものと思われる)。
なぜかカイの瞳が赤く、また画風がアニメ調だったことも、その違和感の一因だったのかもしれない。
ちなみに、ナムコ広報誌・NGで、このソフトが紹介された時に付けられたキャッチコピーは、
「ボクってロリコンかな」 。恐らく、「二次コン(二次元コンプレックス)」とごっちゃになったものと思われる。
いずれにせよ、当時のNGは広報誌でありながら、ナムコの方針に異議を唱えることが多かった。このキャッチコピーもまた、一連のイラストに対する皮肉を含んでいたのかもしれない。
その他にも、事前情報では「カイは一切攻撃できない」「価格が3,900円」などの特徴も見られた(当時のナムコのファミコンソフトは、定価が最低でも4,900円であり、同年3,900円で販売された他のソフトは、同じく遠藤雅伸氏制作の
『ファミリーサーキット』 のみだった)。
しかし、実際にゲームに挑戦してみると、そうした事前情報からくる違和感を遙かに上回る“勝手の違い”に遭遇することとなる。
2011/06/21(火) 23:59:59 |
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