『ドルアーガの塔』研究室 管理日報

『ドルアーガの塔』研究室管理人・GILによる、更新履歴だったりつぶやきだったりてきとーに。

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函館ゲーセン・メモリーズ【12】棒二森屋の魔法の扉

前回、函館駅前のデパートについて書いたが、ここでひとつ忘れてはならない……いや、忘れることなどできないメディアについて触れる必要がある。

ラジオ番組ラジオはアメリカン(通称・ラジアメ)だ。
当時のゲームマニアには言わずと知れた、ナムコ一社提供の番組である。


そもそも、1980年代当時はゲームに関する情報収集に、多くの苦労が伴う時代だった。
もちろんインターネットはおろかパソコン通信も普及しておらず、公式の情報源であるゲーム雑誌は月に一度の刊行。
おもちゃ売り場の店頭には、家庭用ゲームソフトの発売予定表が掲示されており、そうした店頭などで一部メーカーが配布する無料のチラシや小冊子などが、数少ない「公式」の情報だった。それ以外では、テレビCMも貴重な情報源であったが、それを流せるメーカーも流す番組も、ごく限られていた。
一時期、メーカー側が「ファンクラブ」を組織して会員に会報とチラシを送ったり、テレフォンサービスなどで情報を公開することも流行っていた。
それ以外は、「口コミ」という非常に不確かながら伝播するメディアが頼りだった。これは都心も地方も変わりない。

その口コミで級友から伝えられたのが、ラジアメの存在だった。
毎週放送される30分のラジオ番組で、番組の合間にはナムコゲームのラジオCMが流れるという。
まさかそんなものがあったとは! 北海道では日曜日の深夜という、学生にはキビしい時間帯であったが、それでも聞いてみることにした。


初めて聞いたのは、1985年12月。
ちょうどパーソナリティが初代・大橋照子から、2代目・斉藤洋美にバトンタッチした年の暮れだった。

その時に流れていたCMは、アーケードの『スカイキッド』とファミコン『スターラスター』。おお、本当にナムコゲームのCMがラジオから流れている!
さらにコーナーの合間には、ゲーム中に流れるジングル(『パックランド』のフェアリーランド到達時の曲、『リブルラブル』のゲームオーバー音、NEWの付かない『ラリーX』のネームエントリー曲等)が流され、彩りを添えていた。
当時からゲームセンターで、ゲームミュージックを生録していた人間が、これを録音しないわけがない。さっそく翌週から、毎週日曜日にラジアメをカセットテープに録音する新習慣が始まったのだ。


当初はナムコのラジオCM目当てで聞いていたラジアメも、いつしか番組そのものの魅力に取り憑かれていた。

斉藤洋美と大橋照子は、そもそもラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の看板番組ヤロウどもメロウどもOh!(通称・ヤロメロ)で人気絶頂を誇っていた、“たんぱ三人娘”のふたり(もうひとりは小森まなみ)。溌剌とした明るく楽しいトーク術は折り紙つきで、構成作家の鶴間政行の絶妙なツッコミも相まって、中高生が聞いて楽しくないわけがない内容だった。

番組の最後に読み上げられる「番組ご協力者さん」に加わりたくて、わけのわからない貢ぎ物をしてみたり(ちゃんと名前が読み上げられ、次の日学校で級友から冷やかされた)、投稿をはじめたのもこの番組がきっかけであった。


そして、1987年9月23日。
とあるきっかけがきっかけを呼び、ラジアメが函館に来ることになった。


当時、ラジアメは「全国ふれ愛キャンペーン」というイベントを行っており、函館でもそのイベントをやることになった。その会場が、他ならぬ棒二森屋の屋上だったのだ。
ボーニの屋上に足を踏み入れたのは、未だにこの時しかない。

いつもは閉ざされた扉が、この日に限り開放されており、普段なら足を踏み入れてはいけない階段を踏みしめて、屋上へ。

棒二森屋の屋上

太陽と青空、やや強めの風の向こうに、電波越しに声しか聞いたことのない二人はいた。
ステージ左側には、このイベントで使用した『ワギャン』の姿も。
※先日、実家でネガフィルムを発見し、それをスキャンしてみた。以下、とくに断りが無い限り当時の管理人のカメラで撮影した写真となる。

洋美さんのアップ

上記写真の、洋美さん部分を拡大。

普段意識したことのない、同じ函館の地で同じ時間に、同じ周波数に合わせてラジオを聴く“仲間”たちに囲まれ、夢のような時間は瞬く間に過ぎていった。

洋美さんと当時のリスナー達

最後に下敷き(通称:魔除け下敷き)にサインをもらい、一緒に写真を撮っていただいた。
この写真、どうやって公開しようか迷ったが、当時の空気感を少しでも伝えたかったので、洋美さんを除く周囲の人々の顔だけ隠し、あとはそのままにしてみた。
手前にある、南瓜などの野菜は……もしかしたらリスナーが実家で育てたものを持ってきたのだろうか? もうこのへんの記憶はとんとない。

鶴間さんとツーショット

特に鶴間さんが「『明星』のポーズで」と、肩を組んで写真に収まってくださったのは嬉しかった。


しばらくして、その時に写真を撮影していたカメラマンの方が、写真を函館キャロットハウスの壁に並べられ、希望者に向けて販売していた。
照れながらも自分の写った写真や、洋美さんらの写真を購入。

張り出された写真1

張り出された写真2

この二枚が、その時購入した写真(写真を直接スキャンしたので少々汚い)。

あの日のキャロットハウスは、まるで遠足で撮った写真を掲示していた、学校の教室みたいだった。



しかし、成長するにつれ、やがてラジアメは聞かなくなってしまった。
「つまらなくなった」「俺には合わなくなった」というボンヤリした、いわゆる中二病のような感情があったことを何となく覚えている。
それと、番組内で「ぼくが作った曲です!」のような触れ込みで、投稿された同業他社のゲーム音楽が流されたことがあり、それで妙なヘイトが蓄積された覚えもある。
また、良くも悪くも大きな変化のない内容は、そのまま自分自身の嗜好を映し出す鏡となって、己の成長を無意識のうちに見せてくれたのかもしれない。
そして、それまでカリスマであり続けてきたナムコのゲームが、自分にとって必ずしもそうではなくなってきたことが、一番大きな理由だったと今は思う。

1988年頃に、それまでほぼ途切れずに続けてきた録音をやめ、以後はたまにダイヤルを合わせることがあった程度。
それも、パーソナリティが3代目に交代し、番組のカラーが大きく変更されたところで、もう聞くことはなくなった。


管理人にとって、ラジアメは子供から大人へ精神的に成長する最中に、ぴったりと填まったパズルのピースのようなものであった。
ゲーム、ナムコ、深夜ラジオ、会ったこともない電波の向こうの“ヒロイン”と、同じ時間を共有する“仲間”。そんなピースが填まったからこそ、棒二森屋の屋上という「約束の地」へと通じる魔法の扉は、開いたのであった。

もう、こんな形で魔法の扉が開くことは、二度とないのかもしれない。


【余談】
前掲の写真で、ふととある少年(今は立派なアラサー? アラフォー?)のウエストポーチに目が留まった。

ナムコット・サマーカップ'85

これ、ナムコット・サマーカップ'85という当時行われたイベント(ナムコのファミコンゲームのハイスコアコンテスト)で、応募者全員から抽選で選ばれた人に贈られるプレゼントなのだ。
あのイベントから27年、今になってようやくこんな事実に気付いた。写真とは恐ろしい……!



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  1. 2014/03/09(日) 18:00:00|
  2. 函館ゲーセン・メモリーズ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

懐かしいですね

千代ケ岱のセガの指無しオヤジについて書いてください
  1. 2014/09/26(金) 11:56:26 |
  2. URL |
  3. 1942 #-
  4. [ 編集 ]

ちょっと存じ上げないですね……すみません。
  1. 2014/10/11(土) 03:24:08 |
  2. URL |
  3. GIL #-
  4. [ 編集 ]

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